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マタイ福音書14:22∼33「シェガレ神父の説教」

A年間19主日 マタイ14,22-33  
嵐の鎮め 渋川教会2023

今日の福音書はパン増加のエピソードの後に出てきます。夜になってイエスは弟子たちを強いて船に乗せ、危険に満ちた異邦人の地として知られる向こう岸へ先に行かせます。しかしイエスは船に乗らず、群衆を解散させ、一人で山に退き、祈り始めます。暗くて、突風がよく起こる湖の危険を知った弟子たちは自分たちがイエスに見捨てられたことを感じて、おそらく向こう岸に行きたくなかったでしょう。それでもイエスの指示に従い、沖に向かって頑張っています。しかし予想通りに激しい突風が起こり、船は大波に揺られ始めたので、怖くなりました。 
ところが幽霊のように見えたイエスが湖の上を歩き、弟子たちに声をかけます。「安心しなさい、わたしだ」と言う。この「わたしだ」という言葉は、「Hello it’s me私だよ」と言う軽い表現とは違い、ギリシア語の「エゴー・エイミ」、英語なら「I am」、という意味の言葉が使わされて、わたしがいるというよりわたしがあるという意味です。イエスは「恐れることはない、私が共にある」と言いながら、湖を沈めて、弟子たちを安心させます。 
イエスが十字架に付けられ天に上げられた後に、迫害の只中にあった初代教会の信者は、湖を静めたイエスのわざを思い出し、イエスが復活され、今生きているという信仰を深め、厳しい状況に耐え忍ぶことができたと思います。そして湖の波に揺られる船はこれから向こう岸に行く教会のことだと悟りました。イエスと共にいる教会にいる限り無事で、居心地がいいです。しかし教会は船のように、度々嵐に直面し、逆風をついて進み、波に激しく揺られてしまいます。現代は教会を脅かす波は、迫害だけではなく、人々の無関心、神を否定する亜文化、教会に対する多くの人の偏見、教会内の分裂などではないかと思います。教会は昔と変わらず、福音を伝えようとする時はいろんな人の攻撃に遭い、波に揺られて、淵に呑み込まれそうな時もあります。  
福音に戻るが、弟子共同体の頭であり、自信過剰なペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」とイエスに頼みます。イエスは「では来なさい」と言うと、ペトロは、船を降りて水の上を歩き、イエスの方へ進むが、風の強さに気付かされ、怖くなり、海に沈みそうになり、助けて下さいと叫びます。何と可愛い人でしょう。だが私たちも自信を持って神を信じると言っても、何かの試練や困難に遭ったら、不安になり、信仰が揺さぶられることがあります。その時にイエスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とペトロを叱ったように言うが、私たちの手を捕まえ、安心させ、冷静を取り戻して下さいます。このことはもちろんいっぺんだけの体験ではありません。この体験を繰り返すことによって私たちの信仰は徐々に強まり、成熟していくのではないかと思います。
幸いなことにさっき聞いたエピソードはハッピーエンドに終わります。湖が静まり、皆が安心して船に乗ったまま、向こう岸に行って宣教の旅を続け、少しずつ平和の光が見えてきます。
 今週は平和旬間です。昨日、高崎に行って平和を祈りミサに参加して、日本に受け入れられたウクラナイの子供の書いた絵を鑑賞しました。司教様は絶え間ない紛争や戦争が起こる状況の中で、どうやって平和は一緒に作り上げられるかと問いかけました。今日はいつもの通りミサの間に主の平和の挨拶を受け、その挨拶を交わし合います。平和を求める全世界の善意がある人々の願いに合わせて、神の賜物である平和の恵みと平和の知恵が私たちに授かることを祈りたいと思います。

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