【試訳】独島イン・ザ・ハーグ【4】
翌日の夜、ソジュンはタクシー運転手の格好をしたヒョンギが運転するタクシーに乗り、サトー・ホテルに到着した。
客を待つ何台かのタクシーと同様に、ホテルの正面玄関の近くにタクシーを待たせた後、パーティ用の洋服を着たソジュンだけが降り、ホテルの中へと入っていった。
ロビーには「国際ペンクラブ定期総会」と日本語と英語で整った字で書かれた垂れ幕が掛かっていた。
1階の宴会場では約200人余りの人々がパーティに参加していた。ソジュンは人々の間を行き来しながら、ベージュ色のトレンチコート姿のイ・ヒョンジュンを見つけ出した。
ソジュンは、ハンカチを洋服の胸に挿し、ウェイターのように盆を持って、別のペンクラブ会員と挨拶を交わすイ・ヒョンジュンのあとをつけていった。
そのとき、背が低く痩せこけた老紳士が、イ・ヒョンジュンに近づくと、 日本語で挨拶をした。
「イ・ヒョンジュン先生、こんばんは」
「ああ! 宮崎先生。お目にかかれて嬉しいです。お元気でしたか?」
かつて新聞社の駐日特派員だったイ・ヒョンジュンは、日本語が流暢だった。
「お蔭様で。最近はドキュメンタリー制作で少し忙しいですが」
「ああ、そうなんですか? どんなドキュメンタリーを?」
「最近、熊本市の放送局から、波形銅器の起源に関するドキュメンタリーを作ろうという提案を受けたんです。
私どもは、波形銅器の形が沖縄以南で獲れるスイジガイという貝に基づいているところまで発見しました。白い体にタコの足のように細長い突起が5、 6個ずつ突き出ているスイジガイが、波形銅器にとてもよく似ているからです。
沖縄の方にインタビューしてみると、弥生時代か ら、彼らはその貝が魔物を追い払う力を持っていると信じ、大梁をはじめとした家の中の至る所に掛けたり、装身具として使っていたそうです。
あ、イ先生にいずれにせよ伺いたいことがございました。この沖縄の人々の信仰は、一体、日本国外のどこから始まったものなのでしょうか?」
イ・ヒョンジュンは、片手で口に触れて考えに耽っていたが、しばらくして口を開いた。
「確かではありませんが、個人的な推測を申し上げますと、スイジガイは、日本語で『牛貝』という意味ではありませんか(※)? ですが、スイジガイは牛に全く似ていません。
その上、中国の歴史家・陳寿が書いた『魏志倭人伝』を見ると、日本には牛や馬がいなかったとあります。牛がいない国に『牛貝』という名前が生まれたのは、もしかするとその貝の信仰の由来が、牛の国から始 まったからではないでしょうか。なので、牛の国であるインドへ一度行ってみてはいかがですか?」
「おお、これはまた説得力がある推理だ。ですが、インドはかなり広大な国ではありませんか。もしかすると、インドのどの辺りに 行けば、スイジガイを見つけることができるか、思い当たる場所でもございますか?」
「『三国遺事』の『駕洛国記』を見ると、金首露(キム・スロ)王の王妃・許黄玉(ホ・ファンオク)が、太陽の王朝であるインドのアユタ国の出身だったという記録が出てきます。
波形銅器が太陽の形を手本としたものであり、スイジガイも、牛ではなく、燃え盛る太陽に似ているので、もしかすれば、その起源は、太陽の王朝であるアユタ国にあるのではないでしょうか?
アユタ国は、現在のガンジス河上流のアヨーディヤー地方にその痕跡が残っていると聞いています」
宮崎は感嘆して言った。
「ありがとうございます。素晴らしい推理だ。専門家顔負けですよ」
「身に余るお言葉です」
イ・ヒョンジュンが宮崎に挨拶をして振り返った時に、ソジュンはわざと彼と体をぶつけた。
ソジュンが持っていたジュースがこぼれ、イ・ヒョンジュンのカバンを濡らした。
「すみません。本当に申し訳ありません。私がお拭きします」
ソジュンは日本語で何度も謝ったあと、しゃがんでナプキンでイ・ヒョンジュンのカバンを拭いた。ナプキンの中には携帯用の透視器が隠されていた。
「大丈夫です。そのままにしておいてください」
「いけません、先生。私がカバンを拭いている間に、先生は背中の染みをお拭きください」
「え? 何かついたんですか?」
その言葉にイ・ヒョンジュンはカバンを置いて立ち上がり、トレンチコートを脱いであちこち調べた。
ソジュンの耳につけたイヤホンを通して、ヒョンギが話した。
「オッケー。これで完了っす」
服を調べていたイ・ヒョンジュンは、首をかしげながら呟いた。
「何もついていないんだがなあ・・・」
「そうですか? すみません、私の見間違いです」
ソジュンは、きれいに拭いたカバンを丁重に差し出した。
イ・ヒョンジュンはカバンを受け取ると、眼鏡を手に取り、裸眼でソジュ ンを注意深く見つめた。
「もしかして、どこかでお会いしたことはありませんか?」
「初対面だと思いますが・・・」
「あ、そうですか? 失礼しました」
そう言ってイ・ヒョンジュンは背を向けると、人ごみの中に消えていった。
ヒョンギがイヤホンで、イ・ヒョンジュンのカバンの中にあった物を説明した。
「カバンに『駕洛国記』のように見えるものはなかったっす。眼鏡ケース、詩集数冊、今日の行事のパンフレット、それから書類封筒1つ。それで全部っす」
「書類封筒?」
「はい、でも薄いやつっすよ。中にせいぜい紙が数枚しか入らない感じの」
「それが『駕洛国記』であるわけはないか。ホテルの部屋に置いてきたのか?」
「別のチームが、イ・ヒョンジュンが出て行ったあと、ホテルの部屋をくまなく探したんすが、『駕洛国記』のようなものはなかったらしいっす」
「どこにあるんだろうな? もう日本側に渡ったのか?」
そのとき、司会者がイ・ヒョンジュンを前へと呼び出した。
「それでは、今回は、3年前に国際ペンクラブ会長を務められた、韓国のイ・ヒョンジュン先生のお言葉をいただきます」
イ・ヒョンジュンは割れるような拍手に囲まれて、壇上に上がると、英語で演説を始めた。
「私たちは今、葛藤と反目の時代に生きています。地球という小さな村の至る所で、富める者と貧しい者、保守と進歩、旧世代と新世代、 民族と民族、宗教と宗教、男性と女性、権力を握る者とそうでない者に分かれて、互いを攻撃し合い、一歩も前に進めずにいます。
絶対的な価値が消えてしまったこの世界で、現在、どちらが正しいのかを決める基準も審判もありません。その結果、対立状態が極限にまで至り、人類の平和と幸福はもちろん、生存自体をも脅かしています。
このような極限の対立は、政治によっても、外交によっ ても、力によっても克服することができず、むしろ助長するのです。
人類が共存できる方法は、ただ一つしかありませ ん。すなわち、互いを無条件に、人間だという理由のみで尊重し、人間に対する理解に努め、互いに和解し合い、意思を通わせていくことなのです」
穏やかな口調にもかかわらず、イ・ヒョンジュンの演説には、並々ならぬ力がこもっていた。次第に、多くの聴衆が、イ・ヒョン ジュンに注意深く耳を傾け始めた。
「まさにこの時、私は、文学の時代的使命に注目するようになりました。私たちは、文学を通じて、人間の生の本質を理解することができるのです。文学を通して、他の人々をより深く理解することができるのです。文学を通して人々は、この社会の矛盾を理解し、より良い社会を夢見ることができるのです。
文学こそが、この世界で唯一残された、深みある理解と意思の疎通の手段であるのです」
その言葉に、嵐のような拍手が沸き起こった。拍手はなかなか鳴りやまなかった。
ちょうどその時だった。
突然、停電になり、大会議場が闇へと姿を変えた。
暗闇の中でシルエットの集まりが、一つの獣のようにうごめいた。イ・ヒョンジュンを視野から逃したソジュンは慌てた。
「ヒョンギ、ヘッドライトで中を照らしてくれ」
ヒョンギはタクシーをバックさせると、ヘッドライトでホテルのガラスの壁を照らした。
光の線の間に、正体不明の男たちが数名、 イ・ヒョンジュンをホテルの外へ連れ出すのがかすかに見えた。
ソジュンはすぐに追いかけて外に出ようとしたが、パニックに陥った人々が至る所でぶつかる状況の中、人をかき分けて前へ進むのが容易ではなかった。
ソジュンは、茶菓子が載った長いテーブルのクロスをつかんで左右に揺すった。テーブルの上のグラスと盆が両脇に落ちた。驚いた女性たちが鋭い悲鳴を上げた。ソジュンはテーブルの上に跳びあがり、走り出した。
男たちがイ・ヒョンジュンを連れて宴会場の外へ出る直前、ソジュンはテーブルを蹴って跳びあがると、男たちに向かって足蹴りを食らわせた。男の1人が足蹴りを受けてひっくり返ったと思いきや、もう一人の男がソジュンに襲いかかってきた。
その間に残りの2人の男がイ・ヒョンジュンを外へ連れ出し、待機させていた黒塗りのベンツに乗せると、一目散にその場を立ち去った。
ソジュンがタクシーに乗り込むと、ヒョンギは力いっぱいアクセルを踏みこんだ。
タクシーは懸命にベンツを追いかけたが、交通渋滞のひどい東京の夜の時間帯のため、なかなか間が狭まらない。
「兄貴、あの車の番号を見てください。数字が1桁っす。日本であんなナンバープレートの車に乗るのはヤクザっすよ」
「ヤクザが小説家を誘拐? 何かが変だ」
そのとき、道路の左側から、救急車1台がやかましくサイレンを鳴らして現れると、渋滞の道路をかき分け、ベンツのために道を開けた。ベンツとタクシーの距離が広がり始めた。
「使える道具はないか?」
「助手席の前のコンソールボックスを開けてみてください」
コンソールボックスの中には、拳銃とナイフが数本、ヌンチャク、手榴弾、ガス銃などの武器が入っていた。
「一体誰がヤクザなんだか・・・」
ソジュンは後部座席を振り返って見た。座席の下に鉄のゴルフクラブが置いてあった。
「お前、最近ゴルフもするのか?」
「時々っす」
「こいつ、運が良いな」
ソジュンはゴルフクラブを手に取り、窓の外を窺っていたが、突然ドアを全開した。
後ろから走ってきていたピザ配達のオートバ イが急ブレーキをかけ、道路に滑って転んだ。ソジュンは倒れた青年に持っていた現金を握らせて、そのオートバイに跨った。
ソジュ ンのオートバイはいくつもの車をよけて走り、あっという間にベンツに追いついた。
ソジュンがベンツの運転席側に近づき、ゴルフクラブで窓ガラスをかち割ると、ベンツが左右によろめき、横の車に衝突して停止した。
直ぐに前を走っていた救急車が止まると、後ろの扉から十数人の図体の大きな男たちが、刺身包丁を手にソジュンに向かって走ってきた。
ソジュンは真っ先に襲い掛かってきた男の腹を蹴飛ばし、横に停車していた車の窓ガラスを目がけてその顔をぐっと押し付けた。
次の男は足で胸を蹴り、高架道路の欄干の外へと落としてしまった。
しかし、残りの男たちを一人で全員相手にするには多勢に無勢だった。
ソジュンは必死に胸のマイクに向かって叫んだ。
「ヒョンギ、今、どこにいる?」
「こっちっす!」
その瞬間、背後で急ブレーキの音が聞こえたかと思うと、ヒョンギのタクシーが男たちに襲い掛かってきた。
車体にぶつかった男たちは倒れ、あちこちに転がった。
タクシーから降りたヒョンギは、残りの男たちに向かってガス銃を撃った。男たちは息が出来ず、何度もせき込んだ。
その間にソジュンは体を起こし、ベンツへと走っていった。そのとき、後部座席のドアが開き、黒いサングラスをかけた革のコート姿の松井海佐が降りてきた。ドアの隙間から、イ・ヒョンジュンの恐怖におびえた表情がちらりと見えた。
「お前たちは何者だ?」
ソジュンが日本語で尋ねたが、松井海佐は何も答えずに、鉄の棒を取り出した。
折りたたんだ傘のように短かったが、松井海佐がボタンを押すと、両方の先が長く伸びた。
ソジュンが素手で松井海佐に跳びかかったが、海佐の鉄の棒は目に留まらぬ速さでソジュンを攻撃した。
ソジュンは幾度しかかわすことができずに、攻撃を受け、地べたに倒れてしまった。
頬にアスファルトの冷気と、妙な土の臭いを感じ、いつからかサイレン音が耳元で鳴り始めるようになる中、ソジュンの瞳は次第に閉じていった。
ソジュンは目を開けた。
くすんだ白色の天井がぼんやりと見えた。
横になったまま、ゆっくりと首を回すと、白く霞んだ視野に、 白いガウンを着た人々が忙しく行き来するのが見えた。
程なくして次第に目の前がはっきりとし、声が聞こえ始めると、全身にじん とした痛みを感じ始めた。
看護師がやってくると、ソジュンのベッドを引っ張り、一般病室へと移した。
病室の中で座っていた二人の男がぱっと立ち上がって、近づいてきた。見慣れた顔だった。
「兄貴、大丈夫っすか?」
ヒョンギだった。
韓国から東京に急行したチョン・チーム長も大喜びし、ソジュンを見下ろした。
「良かったな。手術も成功したし、丈夫な身体だから、1週間もすれば退院できるそうだぞ」
ソジュンが口を開き、呻くように尋ねた。
「イ・ヒョンジュン先生は?」
「路上で遺体で発見されました」
ヒョンギのその言葉に、ソジュンはため息をつき、ぎゅっと目を閉じた。
全身から力が抜け、痛みを忘れるほどに、ぞっとした気 持ちが鋭い刃のように胸の中に食い込んできた。
イ・ヒョンジュンを目の前で見守っていたにもかかわらず、彼の死を防ぐことができなかったという、罪悪感と責任感が、ソジュンを襲った。
【5】へつづく
【画像】SNCR GROUPさま【Pixabay】
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