【試訳】独島イン・ザ・ハーグ【13】
東京、靖国神社。
田中は、竹で出来た柄杓で水をすくい両手を洗った後、左手の平に水を受けて口を漱いだ。「祓い」という浄化の儀式だった。
山座海斗・外務省条約局新局長も同じように後について行った。白い顔の上に長いまつ毛が、半紙に細筆で描いたように真っ黒で細かった。
山座海人は、日本が領土紛争訴訟のためにかなり前から育ててきた秘密兵器だった。
東大法科大学院で国際法を先行した山座海斗を日本の外務省はずっと以前に発掘して育ててきた。
世界最高の領土紛争専門家に数えられるオックスフォード大学のジョナス・ジョ ンソン教授の元へ送り博士号を取らせ、国際司法裁判所(ICJ)にいる日本人裁判官の研究官としても勤務させ、ニューヨークやハーグのような国際法と関連の多い公館で勤務させ、外務省本省では条約課長のポストを任せ、更に暫くの間領土紛争専門の法律事務所へ出向させたりまでした。
田中は本堂の前に行き、天井から吊るされている綱を引き寄せた。しゃらしゃらという鈴の音が、広々とした境内に響き渡った。
田中は両手を合わせたまま、腰を深く曲げ、二度礼をした後、拍手を二度した。
最初の拍手は、眠っている神を起こすためのもので、 二つ目の拍手は、願いをかけに来たことを知らせるものだ。
田中は、靖国神社に安置された父親に対して、竹島を成功裏に奪還する ことができるよう、心の中で祈った。
戦後、日本の戦犯を裁判した、いわゆる東京裁判では、当時の日本の総理だった東条英機をはじめとした7名に死刑を、17名に終身刑を、そして残りの1名には7年の禁固刑を宣告した。
その際終身刑を受けた人物の一人で、戦時中の国務大臣だった人物が、田 中の父だった。
戦後、中国と北朝鮮が共産化しソ連との理念対立が激化すると、危機感を抱いた米国は、日本と韓国の既得権勢力を弱体化させるよりも、彼らを反共勢力として育てるのが急務だと認識した。
このような雰囲気の中で、主要戦犯が減刑され釈放されたが、その中に、田中の父と松岡総理の祖父も含まれていた。
釈放された田中の父は数年後、衆議院選挙で当選し、華々しく政界に復帰した後、天寿を全うした。
1978年に靖国神社が東条英機元首相をはじめとするA級戦犯14名の位牌を隠密に合祀し、国際的に大きな物議を醸したが、田中の父もこのとき合祀者名簿に含まれていた。
参拝を済ませた後、帰り際に田中が言った。
「戦争で勝とうが、負けようが、日本は我々の祖国ではないか。祖国の栄光と汚辱を共にするのが国民の道理であり、運命ではない のか」
「その通りです。いつか天皇陛下も参拝されることでしょう」
山座海人はそう答えた。
昭和天皇は、A級戦犯が合祀されて以降崩御するまで靖国神社を参拝せず、その皇太子である今上天皇も未だに参拝していない。
田中と山座海人は、日本唯一の戦争博物館である遊就館を見て回った。
そこには、太平洋戦争時に使用された潜水艦回天、潜水夫が直接抱いて水中に飛び込んだという魚雷、神風特攻隊の飛行機、血痕がはっきりと残っているマフラーなどが展示され ており、横にある碑文には、実に六千余名が自殺攻撃で壮絶に殉国したという内容が記されていた。
田中は神社を抜け出ると、道端に立っている1つの銅像の前で立ち止まった。1946年、東京裁判の際に、インド人裁判官だっ たラダ・ビノード・パールの記念碑だった。山座局長は、パール判事の判決を回想した。
「あの滑稽な東京裁判では、他の判事が皆連合国の操り人形だった中で、ただこのお方だけが、自身の考えに従って判断し反対意見を出されましたね。
パール判事殿は、西欧帝国主義と米国の原子爆弾の使用は起訴せず、判事が全員戦勝国出身だった東京裁判所は、法と正義を身にまとっているが、その実は復讐を果たすために作られた不公正かつ不合理なものであり、平和に何ら寄与しえない勝者のみの法廷だと一喝されました。
そして、罪を犯した後に作られた法では処罰することができないという万国共通の原理であ る遡及立法禁止の原則を根拠に、被告全員に対して無罪を宣告したのです。
戦勝国は、パール判事殿の本1冊分もの長さに及ぶ反対意見の出版を阻止していましたが、日本が1952年にこの裁判の合法性を仕方なく認めた後になって、ようやく出版を許可しました」
「戦犯というのは、戦争犯罪を犯したという意味ではなく、戦争で負けたのが罪だという意味だな」
「その後、国内法上は戦犯全員が既に公務で死亡したと処理されたので、法的には犯罪者となりえるはずがないのです」
「東京裁判は専ら日本だけを犯罪者の立場に追いやったのみ、日本に原爆を投下したアメリカや、シベリアで日本軍を集団虐殺したソ連に対しては罪を問わなかった。
日本の行為の中でも、ただアメリカに対する罪だけを問題としたな。満州や中国侵略に加担した日本人の中でも、アメリカ侵攻に介入しなかった人物は起訴さえされなかった。何という裁判だ。
インドや他の南アジア諸国も当時日本に対してそれほど敵対的ではなかったのだ。
日露戦争に日本が勝利した時、インドのネルー首相は、アジアの小さな島国である日本が世界最強の軍隊を有するロシアを撃破するのを見て、自国民も勇気をもらったと、日本を誇りにしていたな。
1994年に村山総理がマレーシアを訪問した際には、マハティール首相が『日本が50年前のことを謝り続けるのは理解できない』と言ったこともある」
「ただ中国と韓国だけが、延々と昔のことで日本の足を引っ張ろうとしているわけです」
「被害者としての被害者意識と、劣った隣人が決まって抱く妬みのせいだろうな。我々がいくら謝ったところで、もっと厳しいことをしろと言ってくるだろう。我々が何をしようと、絶対に満足させることのできない人種の奴らだ」
「福沢諭吉のような大先生も既に130年前に、中国と韓国にうんざりして、脱亜入欧を主張したではありませんか」
田中は、ハハハと笑い、
「そうだ、そうだ。それはそうと、松井海佐がウサギを袋小路までよく追い詰めてくれたのだから、これからは山座局長が法廷でウサギを捕まえるだけだな。しっかりと頼むぞ」
「心配ご無用です。安保理はICJ行きを勧告するでしょうし、韓国は訴訟に応じるほかないでしょう」
「訴訟の準備は万端か?」
「政府からの全幅の支援により、極めて順調に進んでおります」
日本の訴訟チームは、訴訟に必要な国際法、歴史学、地理学、地質学、古文書学、書誌学などの知識を既に習得し終えていた。
諮問教授にも、日本の最高峰の教授だけでなく、世界的な大学者までも招聘されていた。
既に数十年前に完成したICJ提出用の弁論書も最新判例や理論が出るたびに改良されてきた。
世界的に有名な教授や国際公法訴訟を専門とする法律事務所と弁護士にも全員依頼をしていた。
「最近は既に仮想の韓国チームを作り模擬訴訟の練習もしております。心理学者を動員し、裁判官の性向も一つひとつ分析しています。
訴訟戦略を諮問するチームも別途作りました。ICJ裁判を経験した他国の引退した実務者もスカウトして、活きた助言を受けているところです。韓国に訴訟で負ける方が困難です」
「負ける方が困難だと? その言葉、とても気に入った。気に入ったわい」
田中は子供のように手を叩いて大声で笑った。
「引退前に、お前たちのお蔭で大きなやり甲斐を感じることができた。死んでこの靖国神社にやってきても、先にいらっしゃる祖先の方々に恥ずかしくないだろう。お前のお祖父様も、お前をとても誇りに思うだろうて」
「今は、祖父を越えたいと思います」
外務省内ではもちろん学者の間でも、領土問題に関する限り右に出るものがいないほどずば抜けた外交官かつ法律家になった山座海人が越えようと思う人物はただ1人、祖父である山座円次郎だけだった。
【14】につづく
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