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「語学力の高さ」って何だろう

最近、改めて「語学力の高さとは何か」について考える機会がありました。

「語学力が高い」とは、発音の良さなのか、流暢に話せることなのか、語彙力の多さなのか、はたまた表現力の豊かさなのか……。

語学試験においては、「語彙力の高さ」は語学力の高さを測る重要な物差しとなります。

レベルの高い級の試験であるほど、高尚で難しい言葉を使って作文したり会会話したほうが、簡単な言葉で表現するよりも高く評価されると私は思います。

私も難しい言葉を使いたがる人間の1人なので、気の利いた表現はなるべく覚えたいし、何なら使ってみたい。

しかし、言葉を商売道具として働くようになってから、「語学力の高さ」とは「適切な表現を、適切なタイミングで使えること」じゃないかと思うようになりました。

どの言葉にも適した文脈や適した受け手があります。いくら難しい表現を使ってみたところで、そのタイミングがずれていたり、使う相手が不適切である場合には不自然に聞こえますし、酷い場合には話者のただの知識のひけらかしに終わってしまい、悪い印象だけを場に残すだけとなります。

簡単な言葉で済む場面で、かつ簡単な言葉のほうが適切なときに、かえって難しい表現を多用すると、かえって「この人は言語に不自由しているんじゃないか…」という疑念を受け手に抱かせてしまうかもしれません。

「大変申し訳ありません」と言わないといけないところで「さーせん」と言うのは不適切と見られるかもしれませんが、

「さーせん」で済みそうな場面で「慚愧の念に堪えません」と言った場合も、やはり不適切と受け止められると思います。

時と場合、詰まるところこれが大事なんですね・・・。

親切な人からは「そんな難しい日本語知っていて凄いね」と言ってもらえて、それで自分の自尊心を満たすことはできるかもしれませんが、高度な日本語を知っていても「あの人は日本語に不自由しているな」という印象を周りに与えかねません。

不思議なことです。表現をたくさん知っていても、語学力の高さには直結しないのです。

ことわざもそうですよね。外国語で習ったことわざは使ってみたくなりますが、こちらが「どやっ」と自信満々な顔で相手の反応を待っても、十中八九、使い方やシチュエーションを間違えています。

そう考えると、簡単な表現にも難しい表現にもそれぞれの活躍の場所があり、語学を極めようと考える人間としては、いたずらに語彙数を増やすよりも、適切な場面でどの表現を使うべきかについてのセンスを磨くことに時間と労力をかけたほうが良いように思えます。

要は、語感を磨けということなのですが、本当にそれに尽きる気がします。

また、母語話者の中にも、やたらに難解な表現を使い、結局何が言いたいのか分からないという人が少なからずいます。そして「頭の良い人」の例として、難しい内容を簡単な表現で分かりやすく伝えられる人、というのがあります。

母語ですら大変なのですから、非母語の言語でそのレベルに達するのは至難の業で、ごくわずかの人しかその域に達することはできないかもしれません。ですが、目指してみる意味はありそうです。

ですので、私もこれからは不必要に難しい言葉を使ったりしないで、ネイティブスピーカーの会話や文章をじっくり観察して、自分の語感を鍛えていきたいなと思います。

もし宜しければサポートいただけるととても嬉しいです!