指導者は成功体験を与えるのが役目
トラックシーズンが本格化しています。近年は駅伝人気が高まっていますが、グランプリシリーズなどの試合では空席が多く見られ、陸上競技全体の人気を高めなければならないと痛切に感じます。陸上競技は野球やサッカーと比べると「観るスポーツ」としての魅力はまだまだ乏しく、ビジネスとして確立していないため、選手らはたとえ日本一になってもそれほど多くの報酬を貰えるわけではありません。人気を獲得していくために陸上界全体として取り組まないといけないことは山のように残っています。
駅伝人気がある長距離でも、現状はそこまでお金が稼げるスポーツではありません。ではなぜ選手たちは苦しいトレーニングを継続し、この競技に夢中になり人生を捧げているのでしょうか。もちろん好きなことを続けたり、力を注ぐのに理由はありませんが、今回はそれについて少し考えていきましょう。
心理学者のスキナーは報酬や罰を与えることによる自発的な行動の変容を明らかにしました。その研究では、ラットを箱の中に入れて、ブザーが鳴った際に偶然レバーを押せば餌が出る仕組みをつくりました。ラットはブザーが鳴れば餌が出てくるのを学習し、その後、ブザーが鳴ると自発的にレバーを押すようになります。これは餌によりラットはボタンを押す行動を促されたことを示しており、この状態を心理学では「強化」といいます。たとえレバーを押した際に餌が出なくても強化は維持されます。むしろ毎回ではなく、時々餌が出る状況のほうがこの条件付けは消去されにくいと考えられています。これをオペラント条件づけといいます。
しかし、時にレバーを押した瞬間に電気が流れて体に痛みを生じる仕組みをつくった場合はどうなるでしょうか。ラットは次第にレバーを押さなくなってしまいます。その罰により強化は失われ自発的な行動を止めてしまうのです。
陸上長距離でも常に好結果が出るとは限りません。練習がうまくいって力の向上を実感し、さらにレース前の調整が万全で、気合十分に自己ベストや優勝を狙いにいっても、風が強かったり、気温が高ければ、記録は望めませんし、ペーサーが機能しなければ思い描いたレースにはならないでしょう。勝負の面で言えば複数のライバルと戦いますので、相手の調子や実力という自分ではコントロールできない要素にも結果が左右されます。つまり毎回のレースで成功することは不可能なのです。
しかし、大学まで競技を継続してきている選手はそれまでの過程で親や友人、顧問の先生などから褒められたり、自己ベストが出たときの達成感、表彰台に乗ったときの何ものにも代えがたい喜びを経験しています。例えレースで失敗して悔しい思いをしても「次こそは」と気持ちを新たに、これまでに経験した以上の喜びを求めて走り続けるのです。
私は指導するうえで、いきなり大きな目標だけを立てるのではなく、小さな目標をたくさん作り、それをクリアしていった先に最終的に大きな目標に手が届く目標設定を選手に勧めています。これは「スモールステップ」という教育現場でよく利用される手法であり、この考え方をとるのは言うまでもなく、選手に成功体験を多く得てほしいからです。
逆に根拠のない高過ぎる目標設定だと多くの失敗が生まれる可能性が高く、そのたびに悔しい思いをすることになります。ましてや上手くいかなかった際に指導者から叱責されると選手はやる気を失いかねません。ラットの例でも繰り返しレバーを押しても餌が出ず、電気が流れる罰のようなことが続けば、やがて強化は消去されてしまい、自発的な行動はしなくなるのです。
小さな成功を重ねていけば、自信もつきますし、階段を登るように少しずつ大きな目標にも近づける実感を得られ、努力も継続できます。私はそれを目指しています。陸上長距離は朝起きたらいきなり速くなっていることはなく、練習の継続が何より大切だからです。同時にそうした自信が積み重なっていれば、例え途中で失敗があってもその悔しさを胸に反省と改善を行い、ますます競技に前向きに頑張ることができます。先の関東インカレでも目標達成できた者もいれば、悔しい思いをした者もいます。後者も漠然と悔いるのではなく、しっかりとそれまでの取り組みを振り返り、次の目標へ向かわなくてはなりません。そのためにも小さな成功を着実に重ねていくことが必要なのです。
目標に向かって活動する際に気をつけなくてはならないのが痛みを伴うときです。スポーツの現場で非常に多い「故障」は「罰」と同じ作用があり、障害、痛みがあると、トレーニングができずフラストレーションが溜まり、自発的な行動が抑制されていきます。事実、残念ながら「故障」が原因で意欲を喪失し、競技を止めてしまう選手がほとんどです。ですので、心身ともに継続的にトレーニングできるように故障予防を心がけることは選手の意欲を維持するためにも大切なのです。
現在、チームとして箱根駅伝の目標は7位を掲げています。前回が3位ですから「目標を下げたのでは?」と思われるかもしれません。しかしこれも「スモールステップ」の考え方により決めました。野村颯斗や山本唯翔ら中心メンバー4名が卒業した今季、まだその抜けた戦力を穴埋めできるかどうかは定かではありません。その状況で高い目標を立てるのは現実的ではなく、今のチーム力を冷静に分析した結果、ここに落ち着いたのです。しかし日々の練習や試合の中で小さな目標をクリアしていけば、きっと戦力は高まるでしょうし、夏を過ぎたあたりで上方修正できるのではないかと考えています。
指導者の大きな役目のひとつは選手に成功体験を与えることだと私は考えています。そのため、可能な限り選手とコミュニケーションを図り、その行いを観察、評価し、やる気を維持できるような言葉がけを意識しています。日頃の練習から選手の小さな成功を見逃さず、声をかけ続ければ各々の目標に向かって能動的に突き進むはずです。そしてその継続は選手にとってお金には代えられない最高の報酬につながると信じています。
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