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コミュニケーションデザインのむずかしさ

ついこの前、上司に率直すぎる意見を言ったら、怒らせてしまいました。表現が適切ではなかったことは反省。しかし、私のいいたいことや思いをちゃんと汲んでくれているのだろうか。なんて、私の甘えのような感情でがっちり言ってしまったんですよね。今は冷静ですが、ちょっと来週からそうならないようにデザインしたいと思っている週末です。

コミュニケーションをするのは、人同士が円滑にこの社会というカオスを整え共生していくためにあります。

態度だったり、言葉だったり、見た目だったり、仕草だったり。すべてその人が発するものが情報となります。

そんな中で、面白いnoteを見つけました。

結局は、人は見た目の印象に操作されがちであるということ。確かに。そして、相手を立てるコミュニケーションに勝るものはない気がしました。

多くの人の1番の関心ごとは”じぶん”にあります。そこにフォーカスして会話をしていくと、いつの間にか信頼するようになるんですね。

こちらの本は私がいつも傍に置いてある本です。平田オリザさんの『わかりあえないことから』。人のコミュニケーションの難しさと、それを乗り越えるための考え方が書いてあります。

そこの第7章の『コミュニケーションデザインという視点』は今私に必要なことが書いてあるなと読み返していました。

今世紀中、すなわち私たちが生きている間は、子育てや教育や、看護や介護は、やはり人間がせざるを得ない。ロボットやコンピュータは、その手助けはいくらでもできるかもしれないが、直接的には、我々人間が、この仕事を担わざるを得ない。なぜなら、子どもに代表される社会的弱者は、他者に対して、コンテクストでしか物事を伝えられないからだ。

平田オリザさんは、これからのリーダーシップの資質の一つに、こう言った”弱者のコンテクストを理解する能力”が必要になってくるといいます。

つまり、論理的に喋れない立場の人々の気持ちを汲み取れる人が必要になってくる。

コンテクストを理解する能力。それは言葉の裏に、本当は何が言いたいのかを汲み取る力だと思います。その言葉の裏には、本質が宿っていてそこも、想像する、妄想することが必要なのかもしれない。

コンピューターは、データからその解を導き出します。しかし、そのコンテクストまでの想像は今の所できません。

例えば、著書の中にも書いてある通り、ある男子が好きな女子に対してボウリング行こうよと言った場合、その男子はデートに誘っている、つまり一緒の時間を過ごしたい、というところに解があります。

しかし、コンピューターはボーリングが好きである、というデータで終わってしまうでしょう。

問題なのは、ビジネスの世界のように時間が限られていたり、医療の現場のようにアクシデントやパニック状態が起きやすかったり、あるいは狭い研究室のように権力構造が厳しかったりすると、普段はできているはずのコンテクスト理解のサイクルが遮断され、そこにコミュニケーション不全が起こる。おそらく問題の多くは、個々人の能力ではなく、組織やシステムの側にあるのだ。

デザインの話で言うと、私の大好きなTSUGIの新山直広さんがいらっしゃる。

新山直広さんに初めてお会いしたのは6年前くらい。地域に大きな関心が芽生え、地方の匂いがするイベントにはどんどん顔を出していました。

そのときは日経社のイベントだったのだが、いまだに繋がりがあるのは新山直広さんと平和酒造の山本さんなのです。

そのイベントの時、デザインというものの概念を改めて学びました。全て設計にある。導線は一つではなく、すべて設計にあるのだと思います。

例えばTSUGIでは最初の入り口から最後の流通までを設計します。全体を設計して初めて、中心が見えるようになると思います。そして、安心を作り出すのです。

見えないものに人は、不安を抱きやすい。それは信頼につながりにくいです。

コンテクストを想像する力。それが信頼価値につながるのではないかなと、最近のディスコミュニケーションが多い場面を通して思ったのでした。

#今日のBTS 人生はつづく。そして、この世から体の存在が無くなっても、また続く。そんな気がしています。

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