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現代インド社会における偶像崇拝論争

今日、シク教開祖グル・ナーナクの肖像画はシク教徒たちの間で非常に人気があり、寺院や家屋、その他の公共の場所で壁に掛けられている。しかし、インターネット上の掲示板などでは、グル・ナーナクの肖像画は偶像崇拝を禁止するシク教の教義に違反しているのではないかという議論が盛んに行われている。そこで本稿では、印パの分離独立後に展開したシク教のナショナリズム(カーリスタン運動)に着目し、それによってグル・ナーナクの大衆宗教版画の図像がどのように変化したかを明らかにする。

シク教徒たちの分離独立運動はもともとはムスリム国家であるパキスタンの建設構想に端を発していた。インドがイギリスから独立して間もなく、イギリスの移民社会でも独立国家カーリスタンの建設が主張されるようになり、1971年の第一次印パ戦争後にはシク教徒の政治家がパキスタンに招待され、カーリスタン運動を世界に広めた。これはアメリカのシク教徒移民に歓迎され、多額の寄付金によって独自のパスポートや郵便スタンプ、通貨が発行された。このような中でビンドランワーレーのようなシク教指導者は政治・経済・社会における困難をシク教徒に対する差別であると主張し、穀倉地帯であるパンジャーブ地方における灌漑時の水利用の優先権や、パンジャーブ州とハリヤーナー州の共通の州都であり、首都デリーと同様に連邦直轄領でもあったチャンディーガルをパンジャーブ州内に移転することを要求した。この背景には、インド憲法の25条において「ヒンドゥー教徒とはシク教徒、ジャイナ教徒、仏教徒を含む」と規定されており、シク教徒の夫婦はヒンドゥー婚姻法で登録されていたことも理由となっている。

1984年、インド政府軍がシク教徒の総本山である黄金寺院に立て籠もったビンドランワーレー一派を軍事力で排除するブルースター作戦が展開され、500人近い死者と1500人を超える負傷者を出した。この事件の報復として、作戦を指示したインディラ・ガンディー首相はシク教徒のボディーガードによって公衆の面前で射殺され、インド全土でシク教徒の迫害や殺害が行われた。これ以降のカーリスタン運動は軍事化の一途を辿り、中央政府と待遇改善の約束を取り付けた穏健派が過激派に暗殺された。1986年にはシク教徒の宗教政党アカーリー・ダルが寺院管理協会の許可を得ずに、独自に最高指導者を選出して再び黄金寺院を占拠した。翌1987年には、ヒンドゥー教徒32人の乗ったバスが爆破され、1991年にはルーマニアのインド大使が狙撃された。さらに1995年にはパンジャーブ州首相が自爆テロで暗殺され、最近ではアルカイーダやイスラム国(IS)の軍事訓練にシク教徒の過激派が参加していたこともわかっている。なお、日本に関係するものとしては、1985年にエアインディア182便爆破事件があり、ジャンボ機が北太平洋上で墜落する出来事があった。この1時間前に成田空港でエアインディア機を狙った爆破事件があり、日本人の死傷者が出ている。

20世紀後半におけるシク・ナショナリズムの展開はグル・ナーナクを描いた大衆宗教版画に変化を生み出した。シク教研究の草分け的存在であるマクラウドが1991年に出版した著書には、1960年代半ばにアムリットサルの市場で収集した大衆宗教版画が多数収録された。マクラウドは19世紀後半にラホール博物館の初代館長であったキプリング(1837-1911)が市場で購入した大衆宗教版画と比較しようとしていた。マクラウド・コレクションにおいては、①伝記に基づく描写、②異時同図法を用いた集団肖像画、③少数の従者を伴う独立肖像画、の3種類の図柄が存在していた。しかし、筆者が2010年頃にアムリットサルの市場で独自に入手したカタログには、グル・ナーナクの図像は③の単独肖像画しか掲載されていなかった。出版地はパンジャーブ州の先進都市であるジャランダルであり、表紙の古さから2010年より数年前に出版されているとみられる。

つまり、シク教のナショナリズムによって、大衆宗教版画の図柄が説明的なものから彫塑的なものに変化したと言える。これによって、現代のシク教社会では偶像崇拝論争が起きている。偶像崇拝論争には教主の肖像画を神聖なものとしてみなす場合と、教義に反しているものとして忌避する場合の二つの立場がある。植民地期の宗教復興運動では、主にシク教の寺院にヒンドゥー教の偶像を設置することについて論争が行われていたが、現代の偶像崇拝論争はシク教の肖像画が対象となっている点で異なっている。言い換えれば、偶像崇拝論争が内在化してシク教徒たちのアイデンティティの危機を引き起こしていると言えよう。

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