休職日記 〜効率化の先にあるもの〜
たまにどこでもドアがあったら人は幸せになれるだろうか、と考える。例えば人に会いに大阪から東京に行くとして、新幹線で行けば遠いところからわざわざありがとうということになるだろうが、どこでもドアが存在すればそこに対する感謝はなくなるだろう。タイムイズマネーとも言うが、時間やお金をかけたものは評価されやすく価値が上がりやすい。そこに至るまでの苦労が他者にとって想像しやすいからであると思う。しかし、どこでもドアがあればだれでも簡単に行きたい場所に行けてしまうから、もはや移動による苦労への価値観みたいなものはフラットになってしまう。
最近はネット社会を通じて同様の現象が起きてるように感じて、見たいものや連絡したい相手に簡単にアクセスできてしまう。もはやネットに転がってる情報はだれでもアクセスできるからとても便利ではあるが、色々な情報への価値が少し落ちたようにも感じる。ただ、言いたいことはネット社会が発達してつまらなくなった、ということではない。先述した例で大阪から東京に人に会いにいくとして、その道中にある愛知や静岡などの風景が忘れられてしまうような現象がおきてしまうことが怖いのだ。
思えば似たような現象は学生時代電子辞書なるものを手にした時からも言われていた。電子辞書は自分が調べたい言葉をピンポイントで検索できる反面、紙の辞書のように俯瞰で見ることができない。当時の教師の方々はそのような発言をよくしていたが、効率化の波に抗えず結局はipadで授業するまでになっている。余談だが、自分の高校時代は置き勉禁止などと言われ重い教科書を持ちながら毎日自転車で通勤していたのが本当に意味がわからないと思っていた。
ただ、だからと言ってデジタルではなくアナログなものに戻ろうねという単純な結論にしたくもない。1年ほど前、Eテレの『デザイントークス プラス』と言うアートに関する教養番組の中で、『不便益』というテーマで似たような話をしていた。身の回りのモノは基本的に便利さを追求してデザインされているが、そうではない観点からデザインを再考しようとする考え方で、京都先端科学大学の川上浩司教授がそのような研究をしているそうだ。番組の中で、川上教授は紙の辞書を使用したりしていて、おそらく研究の中で自分が必要なもの、一見不便だが重要なものを抜け落とさないような暮らしを模索しているようだった。だが、MCの方が「たまにメールではなく手紙を書いて送ると新鮮ですよね。」というと、確かに素晴らしいことではあると思うが、時代に逆行することを提唱したいわけではない、という旨の発言を教授はしていた。
自分の今までの人生を振り返ると、効率を求めすぎてその過程で大事なものまで捨てしまっていたように思う。なにかと多くのものを抱えられるほどの器量を持っていないので、例えばダイエットをするとなったら減量することしか考えなくなり、友人との付き合いや会食を避ける。そして、結果的に一人の時間が多くなり友人が減る。そして、食事というのは美味しいものを食べる意義もあるが、だれかとその美味しいものを食べる行為を共有して楽しむということも忘れてしまう。思えばそういうことの繰り返しだったような気がする。結果的に20kg痩せはしたが。。。
食事だけでなく、効率だけで言えば毎年のように行われるクリスマス・正月・夏祭りなどの季節ごとの行事、文字を書くと言う行為、そういったものが全て煩雑に思えて、全て非効率だしやらないでいいだろうと思っていた。それでは、空いた時間で何をしていたかというと、1本でも多く映画を見たり、音楽を聴いたりというようなことに時間を割き、そしてそれが高尚なことだと言うふうに思っていた。ただ、そのようなコンテンツが簡単にアクセスできるようになった今、TSUTAYAでアホみたいにCDを借りていた行為よりも、海外旅行に行ったり、ライブに行ったりするような体験の方がよっぽど振り返ったときに思い出になるのではないか。人と会うことさえ難しい、マスクで覆われている現代を見るとなおさらそう考える。今更くよくよ後悔しても仕方がないのだが、時々そんなことを考えている自分がいる。
『年齢を重ねるごとに色々なことに手を出すことができなくなるから捨てるものを考えなければならない』、と人生の諸先輩方が言うことがあるがそれはその通りなのだろう。たとえどこでもドアができても、忘れてはいけないもの、大事なものを自分の中でこれからまた考え直していきたいと思う。
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