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焙煎納め·考え浸り事

焙煎士としての1年

焙煎士として、過ごしてまる1年が経た。

正直に、実務の内容においては焙煎土という職人的な働き方より、プロジェクト・マネジメントのスキルが求められることの方が多い。
生豆の買い付けをはじめ、輸入、物流の動き、製造、供給まで多方面に視点を置かなければならず。豆を焼く、モノをつくるということは、この数多くの仕事のうちの一つという認識でいなければ、柔軟な仕事対応ができなくなる。

しかし、心誤って無意識的に数多くの仕事のうちの一つに過ぎないという捉え方にならないように、原点回帰する日々を過ごしました。

意識の原点回帰がなぜ大事か。

私たちがつくるモノは食品であり、嗜好品として暮らしに余白を届ける。そんな価値のあるモノだからです。

1杯のコーヒーと100.000杯のコーヒーの価値を天秤にかけることは可能だろうか。


学生時代、イタリア・ミラノにあるスターバックスのロースタリーに訪れたことがあって。焙煎機が本当に大きく、一度に70kgは焼けそうなビジュアルでした。

ミラノにスターバックスのロースタリー



このたとえが、コーヒー業界の者でなければ、想像つかないかもしれないので、他に例えるならば、車でいうところのハイエース、いや、大型トラックの規模感なのです。キャパシティーがトップ・オブ・ザー・トップクラスということ。

実は、勤め先の焙煎機も車でいうところの8人乗り乗用車ぐらいの規模はあり。かなりの量を一度に焙煎できるんです。一人でも年間で数百キログラムを超えた、数トンの量を焙煎します。

コーヒー一杯を淹れるに10gの豆を使用するならば、1トンは、100.000杯という計算。世界中では、年間で2.5億杯のコーヒーを消費されるといった統計もある中で、100.000杯は産業全体から見る巨視的な観点から見ると、わずかな一部にしか過ぎません。

しかし、ひとりの人間からすれば、約100.000のコーヒーなんて、飲んだ人の顔さえ思い出すことができない、宇宙のような数字なのです。

その数字に目を向けたときに、誇りたい気持ちともどかしさが同時に訪れます。地球の反対側から日本へ。世界のどの産業と比べてもヒト、モノ、コトのコストのかかるコーヒー産業の一員として、今日も多くの人にコーヒーを届けられているという広い世界観への感動。その一方で、誰に届けているのか、その顔が見えないということへのもどかしさと不安。

私たちはとっくに前から大量生産・大量消費に対するアンチテーゼ―としての文化の確立を目指してきて、それは実に一部の世界においては実現されているように思えます。「一人ひとり」「丁寧に」という表題は、広告の表題としてよく使用されているでしょう。しかし、一方で私たちは再び量にも目を向けなければいけず、再び最大多数の最大幸福の選択をする必要にも迫られているのです。


一杯のコーヒーに込められた情熱と、それを楽しむ無数の顔への敬意。個々のカップへの愛情と、それを支える産業の広がりの両方を尊重しながら、コーヒーに携わる一員として、何ができるか。

きっと、焙煎土という肩書がなくなろうとも、コーヒーとの携わる距離感や名前が変われども、何ができるか、答えを追い求める姿勢が、私がなりたいコーヒーマンの理想象なのかもしれません。



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