見出し画像

手塚治虫の『ブッダ』はすごい

手塚治虫の『ブッダ』ってすごいなーという話

いまさらですが、手塚治虫ってすごいな、と思います。
すごい作品はいろいろとありますが、ぼくとしては『ブッダ』を一押しにしたいです。
なぜか。
もともと仏教が好きで、いろいろな本を読み漁っているせいかもしれません。
数ある手塚作品のなかで、わりとまとまりの良いほうの作品だからかもしれません。
『火の鳥』は壮大すぎて、ついていけないところがある。
『ブラックジャック』は玉石混交で、おもしろい話とそうでないものがある。
『ブッダ』は、いくつかのエピソードを束ねて、壮大なストーリーに落とし込むあたり、巨匠の腕の冴えを見せつけてくれます。
でも、それだけじゃないんだな、と最近、感じました。
これはあまり語られることが少ないと思いますが、手塚治虫はめっちゃ資料を読んでいる、と判明しました。
ちょっとタイトルを正確に覚えていないことが残念なんですが、興味が湧いて、インド関係の本を読み漁っていた頃の話です。
たしか『インドの野盗』だったか、『インドの盗賊』だったか、そんなタイトルの本です。
イギリスの植民地だった時代のインド各地では、おそろしい盗賊が活躍していたらしいのです。
要するにイギリスに対するレジスタンスの意味もあったのですが、インドならではの特色があります。
それは、各家に伝わる神様(ガネーシャとか、インドでは家ごとに信仰している神様が分かれているらしいです)に祈りを捧げ、誓いをたてて、その条件を達成した暁には、イギリスを追い出してほしい、と願うのです。
問題はその条件です。
「今から、周辺の村人の指を切りまくって、千本集まったら、願いを叶えてくれ」
とか祈るらしいのです。
迷惑です。
その日から、周辺の村々では、いきなり襲ってきた奴に、指を切られまくるのです。
その盗賊は、千本に至る前に警察に逮捕され、願いは成就しなかったといいます。
このエピソードを読んで、「???」と思いました。
そう。
『ブッダ』にそういうエピソードがありました。
ブッダの弟子になった男が、昔、悪い催眠術師に催眠術をかけられて、夜な夜な指を切りまくるのです。
おかげでその男は、アングリマーラ(指切り男)と呼ばれて恐れられます。
最後に、自分の母親の指を切り落そうとした瞬間に、催眠術が解けて、男は逃げ出すのですが、さきほどの史実と似ていませんか?
『インドの盗賊』には、他にも、『ブッダ』に出てきたエピソードに酷似した話がいくつか登場します。
ぼくは思いました。
「手塚治虫はこの本を読んでいたんじゃないだろうか」
井上ひさしなんかは、綿密に資料を調べることで有名で、個展では井上ひさしが参考にした資料が展示されたりします。
でも、手塚治虫はそういう目でみられたことはあまりありません。
天才天才と囃し立てられて、作家としてまともに研究されていないような気がします。
しかし手塚治虫がどんな本を読んで、傑作漫画を書いたのか、興味があるところです。
今後、だれかそういう研究本を書いてくれないかなー、と思います。
枕が長くなりました。
本題はここからなのです。
ブッダの悟りって、みなさんはどういったことだったと思いますか?
ぼくがそんな質問を受けたら、「知るか!」と答えたでしょう。
しかし、世は情報化時代。
いい時代ですね。
なんでも情報が入ってきます。
小乗仏教、上座部仏教、マインドフルネス、ヴィパッサナー瞑想。
こんなキーワードで語られる、日本では歴史的にあまり知られていなかった知識があちこちで拾えます。
それらによると、ブッダの悟りの基本は、「あるがままに世界を見る」ことに尽きるようです。
人は、いろいろなものを見たり、聞いたりするときに、決して、あるがままには感じていません。
可愛い子犬を見れば、「可愛い!」と叫ぶでしょう。
「子犬」とは叫びません。
しかし、あるがままに見たら、それは「子犬」以外の何物でもない。
こういった具合に、あらゆるものを見るときに、人は勝手に「評価」してしまう癖があります。
しかし、ある子犬を見て、可愛いと思うか、汚いと思うか、恐いと思うかは人によって異なります。
人によって異なる評価を排し、犬なら犬とまず端的に見ましょう、というのが悟りの出発点です。(と、仏教の本に書いてあった)
そう。
言い換えれば、「動物の目で見る」ということかもしれません。
人間の、妄想にあふれた見方ではなく、赤ん坊や動物が素直に見る目で、世界を見る。
そうやって見たときに、感じたことが悟りにつながる。
さて、手塚治虫の『ブッダ』は、冒頭にはブッダは登場しません。
まだブッダは生まれていないのです。
生まれるまでに、だいぶ間があります。
そんなに手前から語りはじめて、なにを語っているかといえば、ある修行者が畜生道に落とされるエピソードが語られるのです。
人間の命を救うために、何匹もの動物の命を犠牲にした修行僧が、動物の気持ちが分かるまで、動物同然に暮らす罰を与えられるのです。
これって、先の「動物の目で見る」という仏教の教えに通じるエピソードではないでしょうか。
『ブッダ』という漫画の冒頭に、「動物の目で見る」「動物の気持ちになりきる」修行(というか罰)を与えられるのは、仏教の教えの本質に迫る配置だと思いました。
手塚治虫が『ブッダ』を書いた当時には、今ほど小乗仏教の本は出版されていなかったはずです。
大乗仏教に関する本だけを読んで、悟りの本質を理解するのは難しいんじゃないかと思います。
ただ、大乗も小乗も同じ仏教なので、方法論が異なるだけで、目的は同じはずです。
手塚治虫は、資料を読み込んで、本質に迫ったのだと思います。
すごい!
もう一度、『ブッダ』を全巻読み返してみようと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?