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『マイナス・ゼロ』

長年、積んであった本を片付けにかかっている。
とはいえ、それほど早く読めるほうではないので、一冊一冊牛歩のごとくに読み進んでいる。
ずっと気になっていたが、なぜか二度も挫折した『マイナス・ゼロ』をやっと読み終わった。
ぜんぶで500ページほどあるので、厚い本ではあるが、文体は軽く読みやすい。けっして難解な小説ではない。
この作品は、タイムマシンものの傑作と言われていて、いずれ読みたいと思って積んでおいた。
何度か手にとって最初の数ページを読んでみたが、いつもひっかかる箇所があった。
最初、太平洋戦争末期の空襲のシーンから入って、いろいろと人間関係があり、事件があった後に、いっきに現代(この小説が書かれた当時の現代だから70年代頃)に場面が飛ぶ。
そのあたりでもうギブアップしてしまう。
タイムマシンものの傑作、と言われると、ぼくはどうしてもヨーロッパ企画の傑作演劇『サマータイムマシンブルース』を思い出してしまう。
あの怒涛の伏線回収みたいなものを期待してしまうのだ。
上田誠さんは、『マイナス・ゼロ』のファンであることを公言しているし、読み終わってみると、『サマータイムマシンブルース』には、『マイナス・ゼロ』の影響がほのかにうかがえる。
しかし、2時間程度でいっきに見てしまえる演劇と違って、全ページ500ページにわたる長編小説は1日や2日では読み終わらない。
仕事に合間にちょくちょく読んでいるので、最低でも1週間程度はかかってしまう。
それなのに、この小説は(いや、すべての小説がそうだと思うが)かなり、寄り道するのだ。
物語は一直線には進まない。アクシデントやら必然やらで、思わぬ方向へ引っ張られていく。それが決して、ストーリーテリングのおもしろさに結びついていない。作者の目は別の部分に注がれている。
それは、過去の日本の描写だ。
昭和7年の日本の様子が、目に見えるように描写されている。
その分、ストーリーのテンポは遅い。
だから、最初のころは「当時の町の様子はどうでもいいから、早く話を進めてくれよ」と思っていらいらした。
しかし、そこを通過してみると、だんだんと癖になってくる。
主人公がタイムマシンであちこち飛び回って右往左往する話を期待していたのだが、ちがった。
全体の7割以上が、昭和7年の描写で占められている。作者はどうやらこの時代を描きたくてこの作品を書いたらしい。
あまりに描写が細かいので、てっきり『七帝柔道記』みたいに、実体験を書いたのかと思った。
しかし、作者は1924年生まれというから、昭和7年(1932年)にはまだ8歳にしかならない。
ぼんやりとした記憶くらいはあるかもしれないが、こと細かに描写するほどには覚えていないだろう。星新一の解説にもあったが、作者は当時の様子を資料で綿密に調べたらしい。
描写だけでなく、昭和7年の日本で主人公が出会った人物(大工のカシラとその奥さんと二人の息子)もいい。おおらかで温かい。落語の熊さん、八さんのような人物像だ。こういう雰囲気も描きたかったのではないか。
結論として、この小説そのものがタイムマシンである、と言いたい。
まるで昭和7年にじっさいに行ってきたように感じる。
いや、すべての小説は(小説だけではないが。漫画も演劇も映画も)タイムマシンなのかもしれない。なぜならすべての物語は現在を描くことはできないから。
つねに微妙な過去か、あるいは未来を描く。
現在とは、あるかなきかの、たった今、この瞬間に過ぎない。あっという間に過ぎ去ってゆく。数学の点のように、概念であり、じっさいには存在しないようなものだ。
そう思いを馳せて、時間についてあれこれと調べてみた。
時間とはなにか、といったような本をいくつか読んでみた。
物理学の本は、むずかしすぎてぼくには完全に理解することはできなかったけど、アインシュタインの前後で大きく混乱している現状は伝わった。
ぼくがこんなことを言える立場ではないけど、混乱の原因は、物理学者が時間を、じっさいにあるもののように扱っているから生じるのだと思う。
時間はない。人間があると感じるだけだ、とぼくは思う。
そして人間が感じている時間とは、じつは空間に対する感覚の応用に過ぎない。
遠い過去、と言ったり、近い将来、と言ったりすることでも分かるとおり、時間の概念は、あきらかに空間の概念を応用している。
アマゾンの奥地で暮らすピダハン族には、左右や数の概念が存在しない。色の名前もないし、遠近の概念もないそうだ。
だから過去の失敗を教訓にしないし、動物を狩ろうと思ったらその辺にある棒っきれをつかんで狩るが、その道具は狩りが終わったら捨ててしまう。ただ捨てるだけじゃなくて忘れてしまう。蓄財みたいな概念もないそうだ。
過去がある、と思うのは、われわれが記憶を空間的に整理することによって生じた幻だと思う。
心理学の用語で、鏡像体験、という言葉がある。
鏡を見て、それが光学的な作用によって、映った自分自身の姿だ、と感じるのは人間だけのようだ。
猿や犬は、もう一匹の別の生物が現れた、と感じるらしい。
人間の子供も、さいしょはそう感じている節があるが、ある年齢に達したときに、突如としてそれが鏡像であることを認識する。
その初めての体験を鏡像体験と呼ぶ。
鏡像を鏡像と認識することは、われわれの独自の感性であって、他の動物にはないものらしい。
いや、ピダハン族にだって、ない概念かもしれない。
もしかしたら、脳の機能というよりは、哲学のように作り出されたものなのかもしれない。
時間も哲学概念であり、物理的に存在するものではない、と思う。
人間の記憶のなかにあるだけの幻。まさに物語のなかにしか存在しない。
そういった意味でも、『マイナス・ゼロ』は傑作だった。

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