エンタメと純文学のちがい
おはようございます。
はじめての投稿になります。
だれが読んでくださるのかわかりませんが、とりあえずおはようございます。
最近、2本の映画をたてつづけに観ました。
『女神の見えざる手』と『モーリーズゲーム』です。
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アマゾンプライムに加入しているひとは見て損はないと思います。
どちらもすごくおもしろいです。
しかし2本を比較すると、共通点と相違点が際立っていて、ストーリーのおもしろさとは別に、ちがうおもしろさがにじみ出てきます。
この2本の映画は、主演女優が同じひとです。
ジェシカ・チャステインというひとらしいですが、わたしは知りませんでした。
ウィキペディアで調べたら、すごく有名な女優さんのようでした。
過去にこのひとが出演している映画を、わたしは何本か観たことがあるようでしたが、おぼえていませんでした。
2本とも、パワフルで有能な女性が、目的を達成するために、法に触れるすれすれのところを歩き、その際に落ちて、一方は聴聞会に、一方は裁判にかけられる、という話です。
聴聞会や裁判の過程を描きつつ、それまでの経過を描写してゆく構成も同じでした。監督はちがうひとですが。
『女神の見えざる手』は、聴聞会の最後の最後で大どんでん返しが待っています。
ネタバレになるといけないので、くわしくは書きませんが、作家の七尾与史さんも、「この伏線は読めなかった」というくらいにみごとなどんでん返しです。わたしも読めませんでした。かなりはっきりと伏線を張っているにも関わらず。
しかし、みごとな伏線を最後にひっかけてどんでん返しを成功させたがゆえに、この作品は極上のエンターテイメントになると同時に、嘘っぽい話にもなりました。
主人公はあまりにも頭が良すぎて、うまく立ち回りすぎるので、ぜんぶ計算されつくしている、と感じてしまう。現実にはそううまくはいかないでしょ、と感じてしまう。
一方の『モーリーズ・ゲーム』は、観ていて納得いかない点が多々ある。
主人公のモーリーが幼少期からやっていたのが、なぜモーグルなのか。この物語のテーマになにか関係しているのか。
お父さんが、心理学の先生、という設定はどこらへんに生きているのか。
心理学の先生なのに、娘をうまく育てられなかった。つまり猿も木から落ちる的な? 弘法も筆の誤り的な? そういう教訓を効かせたかったのか?
いやいやいや。
本作は、実在のモーリーという女性が書いた自伝をもとに映画化されました。
だから、ひとつひとつのエピソードに物語上の深い意味はないし、伏線とか回収とかそういう構造にそもそもなっていない。
たぶん、自伝を読んだ監督なりプロデューサーなりが、「この自伝、映画化したらめちゃくちゃおもしろくなりそうだよね」と言って立てた企画なんでしょう。細かい部分に修正があるにしても、あまりいじらないように心がけたはずです。
じっさいにとてもおもしろくなっています。
2本ともおもしろい点は共通していますが、この2本のおもしろさは性質がちがいます。
『女神の見えざる手』は、嘘話のおもしろさ。マーク・トウェインのデビュー作みたいに、「むかしこのあたりに飛び蛙競技ってのがあってな」「嘘つけ、そんな競技があるかよ」「いや、ほんとなんだよ。それでな……」って感じのほら話。ほらだから、あの手この手でおもしろさをつくりださなきゃならない。
『モーリーズ・ゲーム』のほうは、事実をもとにしているので、意味はあとから考える。もう圧倒的に事実が先にあって、そこからなにか人生の教訓だとか、共感だとか、父娘の情愛だとか、ポーカーゲームに集うハリウッドの怪しい連中のばかばかしさだったり、金の匂いを嗅ぎつけてたかるロシアンマフィアのいやらしさだったりが、そこはかとなく感じられるんじゃないか。それが観客に、得も言われぬ感動を呼ぶんじゃないか。
わたしは『女神の見えざる手』はエンタメ、『モーリーズ・ゲーム』は純文学(特に私小説)のおもしろさを、わかりやすく表していると感じました。
どっちもうまくやるにはむずかしい技術が必要になりそうです。
みなさんは、どう感じましたか?
感想をお聞かせください。
それではまた。
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