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毎日小さく死ぬ

睡眠は「小さな死」だと思う。「死の練習」とも思う。
ありがたい設計だなと思う。
毎日練習して、その成果が最期発揮される。練習通りに行く保証はないけど。
そう思うと、死ぬために生きてるとも思える。毎日練習してるんだから、本番がちょっと楽しみだったりする。

死というものはもっと身近でいいよねって思う。
世の中は多様性に溢れ、「絶対」なんてなかなか言えないけど、死は全員に訪れる。 
それなのに、死の話は結構重く受けとめられるし、「死にたい」とか言っちゃうとめちゃめちゃ心配されたりする。
「死にたくない!絶対死なないから!」って言ってる人の方が心配されるべきだと思う。

「死にたい」は「ハワイ行きたい」ぐらいのもんだ。どうせ実現しない。そんなことは分かってる。でも言いたくなる。ちょっと楽になるから。そんなに意味はない。一瞬現実を離れて心が旅をする。
本当に死に向かうときは多分「死にたい」って言わない気がする。
だから「死にたい」って言ったら「そっか」って言ってほしい。そしたら私はあなたに心を開く。もし余裕があればカフェで他愛もない話ができると嬉しい。でもそこまでは求めない。

これは完全に個人の考えだ。私は同世代と比べてあまり死というものに直面していない。だからこんなにドライでいられる。
誰かの死で悲しい、辛い思いをした人もたくさんいるだろう。そんな人が、身近な人に「死にたい」なんて言われたら。
これからは「ハワイに行きたい」って言うね。それか「ずっと寝てたい」って言うよ。


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