人はカテゴリー分けをしつつされつつすることで安心するって話
どうもjon-YAKITORYです。
ずいぶん更新が滞ってしまいましたね。まあマイペースに続けれたらなと思っています。
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「自分って"一般的"とは違うのかなあ」と思う瞬間ってあると思います。あると思います!
まあ中にはない人もいますが、概ねの人は大体そういう悩みを一つや二つを持ってるはず。
多くの人はその不安を解消するために"一般的"な、つまり「普通こうだよー」みたいなことをとりあえずやってみて、
「意外と面白いじゃん」とか「うーん、まあこういうところはまあ、、、続けられるかな、、、?」みたいな落としどころを見つけていくわけです。
そうやって忙しくしていると、大体の不安ってどっかに消えていくんですよね。「気を紛らわす」って言い方が一番しっくりくるかも。
厳密にいえば消えてるわけじゃないんですが、他に近々で考えなきゃいけない現実的な問題(旅行とかご飯の予定とか諸々)が先にあるので長期的かつ哲学的・根源的な問題は頭の隅に置いとくことになり、忘れてしまう。
でも、中には頭の片隅に置いておけない人がいるわけです。その根源的悩みを考えざるを得ない問題が起こった人とかですね。
ほぼほぼ人間関係のトラブルが多いのかなぁとか思っていたり。
もともとそういうのを考えがちな性格の人ってのもいるかもですが、人間関係のもつれや達成できない目標の為に自分と向き合うという経験をしている人が多いのかなと。
「理不尽なものがある」とか「正解というのはない」というのを悟った人で、ある種多様性というものが見えてしまった人達。
そこには別なところに幸せを見出した人もいれば、諦観を孕んだ人もいます。
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自分の好きなものだけ見つめていければ一番いいのですが、同じ思想の人が多いか少ないか、それによって自分のポジションが他人に決められてしまうという問題があることに気付く瞬間があるんです。
例えば、自分と誰かが喧嘩をしたとして、相手に友達が多かったり口が上手かったりすると、自分が悪ということが"決定"されてしまったりする。
人というのは「考えるという労働を逃れる為なら何でもする」という本能があって、直接自分に関係のないことや責任がないことに関して結構簡単にポジション設定(キャラ付け)をしてしまうんです。
以前、職場で物静かでちょっとぶっきらぼうな先輩がいました。その人は口数も少ないし新しい人の歓迎会とかも行かないので、「コミュニケーションが取れない人」と言われてました。
でも、僕個人としてその人と話している時に「コミュニケーションが取れない」と思ったことはないんですよね。
分からないところも聞けば教えてくれるし、不可解なことがあったとき「おやおや?」とか言うくらいの親しみやすさも持っていました。...それがイコール親しみやすいことになるのかはさておき、僕はそう思いました。
結局、最初の方に貼られた「コミュニケーションが取れない」というレッテルに、その先輩も言ってる側も縛られてしまっていた気はしています。
人は「この人はこういうキャラだから」とキャラ設定をしたがりますよね。
キャラ付けというのは布にできた墨汁のシミの如くなかなか取れません。なぜなら、さっきも言ったように人は"考えることを放棄しがち"な生き物なので。
そうやって、何年何十年とキャラ付けに揉まれ続けているうち、自我との乖離が起こってくる。これを、最初に書いたように気を紛らわすことで気にせず過ごす人もいれば深く考える人もいる。
また、性格診断や心理テスト、占いや血液型性格診断などにハマるのもここから来るのかなと思っています。
付けられているキャラと自我との乖離が起こることで、「本当の自分とは」を悩んだりする。または「自分が知らない別の一面もあるんじゃないか」と思ったりする。
他人はキャラを通して自分を見る。自我は自分しかわからないものなのでファクトチェックができない。
だから科学的で普遍的っぽそうなものに分類してもらえたら、それこそが曇りなき眼で見てもらえてる自分なんじゃないかみたいな期待があるわけです。
人は他人を分類するのも好きだし自分さえも分類するのが好き。分類されないものは不安で、分類できたものは安心するんですよね。
僕もあまり外向的な性格ではなく、理不尽な目に合うことや挫折があったりして一時期性格診断とかめっちゃやってたんですが、それもこれも自分が何であるのかを知りたくてやっていたのかなと思います。
でも、そういう統計診断って結局意味がないんですよね。
自分の存在を決めるのは自分が実際にやってきたり考えてきたことだからです。
ギターが上手いと言われる人は性格診断や占いで「ギターで大成する」って言われたから上手いのではなく、ギターを練習したからです。
考え方が大人だなあと思われる人はそういう運命の元にいるのではなく考え続けてきたから、優しいなと思われる人は生まれるときにキャラ付けをされたからではなく他人を思いやる気持ちを持っているから。
自分の本質を決めているのは自分が経験してきたことであり、なりたい自分がいるなら実際に努力や経験をしなきゃいけないのです。
性格診断や心理テストなどは所詮統計情報なので、自分の答えがそこにあるわけではない。参考にしておくくらいでちょどいいのだと思います。
ダメな自己啓発本のように、元気は出るけどタメにはならない、みたいなやつと同じです。
自分に対する落としどころは自分の考え方を変えればいいだけなのですが、他人への分類分けが複雑な問題なわけです。
自分に自我とキャラの乖離が起きている以上、他人にも同じことが起きているわけです。大なり小なり、みんな苦しんでる。
でも知り合う人全てを分類分けせず深く理解しようとするのは不可能です。そう振舞おうとする人はいますが、普通は長い時間をかけて理解していったりするので物理的に無理ですよね。
ならば、「自分の身の回りの大事にしたい人達」に限定して、その人の話をたくさん聞いて理解して、引くときは引くってのが良いのかなと、今のところ思ってます。
「あの人はこういう人」みたいな一言で言えるキャラ付けじゃなく、「こんな面もあるしあんな面もある」みたいな、好き嫌いは別にしてその存在を認知して受け入れるのが大事なのかなと。
もちろん、自分は面白いと思っていても相手には嫌われているというのも往々にしてあるわけですが、そういうのも理解して引いてそっとしておけばいいだけです。
「身の回りって曖昧だろ」「ていうかそれだと身の回りばかり大事にして排他的になるじゃんか!」ていう問題もあります。それはごもっとも。
なので、知り合う人をとりあえず受け入れてみる、というのがいいなと思ってます。最初から決めつけの食わず嫌いするのではなく、その人の話を聞いてみる。
違う価値観があっても、もしかしたらその人が考え抜いてきた含蓄のある真理かもしれないわけです。
そうして「この人の近くにいたいな」と思うかもしれないしそうじゃないかもしれないですが、最初から拒絶するよりは豊かになっていくのかなと。
へんな村的な感覚になって噂話でお互いを縛り付けるのではなく、楽しい事を見つけてきて、それを誰かと共有出来るのが幸せだなと思います。
多様な人や考えに触れて、それを理解しようとするのはきっといいことなんじゃないかなあと、現時点の僕は思っています。
わっちも未熟者でござんすが、未熟者ものなりの考えでありんす。
長々と書いてみた結論は「地道に頑張ろう」とか「自分の友達を大事にしよう」とか「食わず嫌いをやめよう」みたいな普通のことに行きつくのは草ですね。
北海道から沖縄まで自転車で遠回りした気分です。
違うか。
今月新曲投稿しますぜ。よろしくお願いいたします。↓↓↓前曲
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