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House-less, but Homeful. 家は小さく、居場所は多く。

この原稿はちょうど1年前にとある媒体向けに執筆したものだが、一向に日の目を見なさそうなのでこのタイミングで放出してみることにした。コロナ禍を経た今も古くなっていないと思うし、むしろ今だからこそきちんと真意が伝わるのではないか、と思う。

それから1年。僕は今、LivingAnywhere Commonsという多拠点コリビングサービスのプロデューサーとして、八ヶ岳拠点の立ち上げと運営をしている。住み込みながら。そのことで「バンライフやめて定住したんだね」とよく言われもする。いやしかし実際はその逆で、「一生バンライフします」をするために、ここであらゆる実験をし尽くす、というのが僕の答えだ。

そう、僕がこれからの人生を賭けて実験するための土台としてのHOME(マイホーム)を手に入れたのだ……こいつめんどくせえなって思った人は八ヶ岳まで酒持ってきて飲み飲みしましょう🍻笑

それでは本稿へ。

“ある程度までのところ、
 所有が人間をいっそう
 独立的に自由にするが、
 一段と進むと
 所有が主人となり、
 所有者が奴隷となる。
ニーチェ


Vanlife ≠ 車上生活

家を捨て、ひと握りのモノを携えて、リノベした古びたバンの上で気ままに暮らす若者が、欧米を中心に増えている。Vanlife = 車上生活と訳してしまうとミジメでしみったれた印象だが、彼らの顔に悲壮感はなく、むしろどこに行くにも何をするにも自由なその生活を楽しんでいる。写真集「Home Is Where You Park It」でブームに火をつけたフォスター・ハンチントンや、メジャーリーガーのダニエル・ノリスは、まさにスペンド・シフトの時代に現れたヒップスターたちだ。

彼らの暮らしに共通するのは、DIYで自分らしく作り込むことだ。Vanlifeは脱消費・脱資本主義の流れを受けたムーブメントとしても知られる。なので同じ車上生活でも、キャンピングカーで旅をしたり生活することとは表層的にも本質的にも違うのだ。彼らの態度は「あんな高くてダサいもの、誰が買うの?」であり、「欲しい物がないから自分でつくる」というパンクの精神が息づいている。


都市全体をシェアして暮らす

2018年、私は離婚をきっかけに戻ってきた東京で「都市型バンライフ」を始めた。10年ぶりの東京は、相変わらず高い家賃のために満員電車に揺られる毎日が待っていた。すべてを失った自分にとって、1LDKは無駄でしかなく、それよりも10年前にはなかったシェアサービスの充実に驚いた。寝室と必要最小限のモノだけを持ち、LDKや足りないものはシェアに頼ればよいのではないか?と思いついたのが、VLDK(Van + LDK)というコンセプトだ。シェアリングエコノミーの実験場である永田町GRiDの駐車場で寝泊まりする生活を始めた。24時間利用でき、キッチン設備も充実し、洗濯は宅配サービスがあるし、フィットネスジムでジャグジーに入れる。東京全体をシェアすれば、すべてを「持つ」ことなく豊かに暮らせると確信した。

House = 家 は本当に必要だろうか?私の考えはNOだ。それよりもHome = 拠り所の方が大事だとわかった。そうでなければ孤独死の問題など起きるはずがない。戦争や災害が起きた際、頼れる土地がなかったらどうなるだろうか。守ってくれるのは建物としての「家 = House」ではなく、拠り所としての「家 = Home」なのだ。VLDK Lifeを始めてから、必然的に人との関わりが増えた。モノを持たなければ人に頼らざるを得ず、感謝が生まれる。そしてより関係が深くなる。本当に大事なもの以外は実は無くても困らないものだ。Less makes more. むしろ少ないことが、豊かさを生む。

「あきらめてきた暮らし方」の発明

もう少し未来の話をしよう。自動運転、オフグリッド、5Gといったテクノロジーが、「動くマイルーム」の実現を後押しする。ハコ型のクルマがあれば、どこでも別荘になるし、どこでもワーケーションができるようになる。寝ている間に部屋ごと移動するというのはおそらく人類史上初めての経験だ。Spotifyでプレイリストを選ぶように、その時の気分で選んだ土地にワープできるようになると、荒廃した都市や中途半端な郊外よりも、手つかずの原野の方が価値を持つ時代が来るかもしれない。Vanlifeは実はそうした壮大な話の序章に過ぎない。

日本でもバンライフという言葉が聞かれるようになってきたが、空前のアウトドアブームに取り込まれ、「車中泊グッズ」を売るためのバズワードに成り下がってしまっているのは、なんとも残念だ。実はハンチントンもVanlifeが「映え消費」され始めると、さっさと辞めてしまった。Vanlifeという言葉は遅かれ早かれ消費されて終わるかもしれないが、これまで人類が「あきらめていたような暮らし方」は発明され続けていくだろう。そこに残るのは、そうした未来を手作りしてやろうというDIYアティテュードだと私は思う。

「渡り鳥」たちが示す新しい時代のベクトルは、「HOUSEは小さく、HOMEは大きく」という言葉で表現できないだろうか。
ここでいうHOUSEはハードウェアとしての住宅(ハコ)のことである。~中略~対してHOMEは居場所としての住宅を指す。HOMEは地理的な場所からも自由になっていく。
そのような流れが「ほぼ2025年」くらいまで に顕在化してくるだろうと思われる。
島原万丈「ほぼ2025年の住まい考える ― 3.11の移行期的住まい論 」

Photo: ©Van à Table

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