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ブラームスの人生

ブラームスはこんな言葉を残しました。
「神々の時代は終わった。私たち人間は、せめて自分の良心に恥じないよう正確に仕事をするほかない」
「今日の私たちには、モーツァルトのように美しく書くのは不可能になった。私たちにできるのは、せめて、彼と同じように、まじり気なしに書くようにつとめることだ」
「私たちの作品が聴かれるのは、モーツァルトのような人の音楽のすばらしさが、みんなに本当にわかっていないからだ」
 この「神々」には、モーツァルトだけでなく、バッハやシューベルト、ベートーヴェンが含まれていると考えられます。ブラームスは彼らのような天才に対してコンプレックスを抱えた作曲家です。


ブラームスは1833年5月7日にハンブルクの貧しい音楽家の家庭に生まれました。幼い頃から才能を見せ、厳しい教育を受けました。
13歳から、家計を助けるために酒場や食堂、ダンスホールなどでピアノを弾くようになりました。そこは安酒とタバコに溢れ、裸も同然の女性たちを相手にご機嫌な船員たちがダンスをしていました。この経験はブラームスの音楽にも大きな影響を与えました。
1853年、ブラームスが20歳の年に、デュッセルドルフのシューマン家を訪れ、いくつかの作品を演奏しました。ロベルト・シューマンとピアニストである妻のクララはその演奏を聴いて「待ち望んでいた天才がここにいる」と評しました。また、ブラームスも彼らの音楽性や教養人柄に魅了されました。
特に、酒場で酔って奇声を発するような女性と接していたブラームスにとって、当時34歳の知性、教養、美貌を兼ね備えたクララはとてつもなくまぶしかったのです。ブラームスとクララは14も年齢が離れていますが、ブラームスの両親も母の方が17歳年上であること、ブラームスの姉も20歳年上の男性と結婚したこと、さらに父親の再婚相手は18歳年下だったことから、クララとの歳の差などブラームスにとってはどうでも良かったと想像できます。
とにかくブラームスはシューマン家から手厚いもてなしを受けました。
しかし翌年、ロベルトはライン川に投身自殺をはかりました。

彼は精神病院に収容され、クララすら面会に行けませんでした。そして6人の幼い子供を抱えたクララに全ての負担が掛かることになりました。ブラームスはそんなクララを手助けし、奉仕しました。
この時に書かれた作品が、作品10の4曲の《バラード》でした。その第1曲は、母親を愛するあまり父親を殺したエドワルトの話です。既婚のクララに惹かれていて、そんな中でロベルトが自殺を図った状況を、この物語と重ねたのかもしれません。

実際彼は病院にいるロベルトへの手紙で、
「この夏は、奥さまのそばでたいそう快適にすごしましたが、その節はいつも奥さまとごいっしょで、非常に心おどる思いでした。ぼくはあのかたを賛美し、愛する術を学んだのです。それゆえ、今のぼくには、あのかた無しにはすべてが凍てつくように思われます。ぼくの願いはただ一つ、またあのかたにお会いしたいということです」
と書いています。

またその一方で、演奏旅行に出掛けているクララへも手紙を書くようになりました。
「毎朝ぼくに『おはよう』と電報を打ってくださいませんか?……あなたなしにはこれ以上長く耐えられそうにありません」
「死ぬほどあなたを愛していますと、文字に書くのでなくて、今日、ぼく自身の口からあなたに申しあげるのを神が許したまわんことを!ぼくは、あなたにぼくの涙をお伝えすることしかできません」
「あなたを思い、あなたのお手紙を読みかえし、あなたの写真を眺める以外に、何にも手につきません。いったいぼくをどうなさったのでしょうか?」
「お手紙がこれほど悦びをぼくに与えてくださったのは珍しいことです。ぼくの心には強すぎるくらいあなたの存在が感じられます。なんとぼくを幸福にしてくださったのでしょう!」
「どれほど、あなたにお会いしたく思っていることか!……どんな物音を聞いても窓辺にかけよります。あなたのことばかり思いつづけているのです。おねがいですから、ぼくを忘れないでください」
「毎日お手紙をさし上げます」

この文通が40年以上も続くことになります。
この許されない恋の気持ちが彼の音楽に与えている影響は非常に大きいです。

1858年、ピアノ協奏曲第1番を作曲していた頃、ゲッティンゲンの大学教授の娘のアガーテ・フォン・ジーボルトと恋愛関係に入ったといわれています。クララがブラームスを訪問したときに2人の逢引き現場を見て、そのままものも言わず荷物をまとめて突然出発してしまうという出来事がありました。おそらくこれが原因でアガーテとの恋愛は解消されました。
1869年には、シューマン家の三女ユーリエへ恋をしました。驚くことですが、クララへの実らない想いを別の女性に求めたのかもしれません。ユーリエはその年に別の若い伯爵と結婚しました。

彼はそのほかにも美しい女性と親しくなり、恋愛から数多くの作品が生まれました。彼の恋愛と音楽は非常に強く結びついていることがわかります。

1896年5月7日、63歳の誕生日に、クララから祝辞が届きました。クララは脳卒中で病床にありましたが、孫にブラームスの誕生日のことを注意されて直ちにこの手紙を書きました。
「心からのお祝いを、あなたの愛する忠実なるクララ・シューマンより。もうこれ以上はやれません。でも、あるいは間もなく、あなたのー」
この先は判読しがたく、文意もわかりませんでした。しかしブラームスにはそれがよく読めました。彼はこの手紙に返事を書き、1853年に始まったクララと交わされた手紙で最後のものとなりました。

「五月八日
最後のものは最良だった。この格言が、七日付けのあなたのお祝いという、この世でいちばん愛しいものが届いた今日ほど、美しく、私の身にあてはまったことはありません。千というお礼をいいます。それから、あなたももうすぐに、幸福な驚きをもちますようにー何よりも、もちろん、また健康な身体になるというすてきな気持ちをとりもどしますように。
私には、あなたがバーデン=バーデンにゆくつもりだということがわかりました。もしそうなら、どうか、いつ、それから幾日ぐらいの予定でいくつもりか、私に教えてください。あなたの訪問とは別としても、私も、「バーデン=バーデン」には、いつも、一種の憧れを感じているのです。でも、もしこの機会を利用して、長年愛してきた風景とわが友を、もう一度見ることができたら、どんなにうれしいでしょう。
しかし、あなたはきっと、これ以上読む許しが出ないでしょうし、私も、このほかに何にも書く気はありません。ただ、私だけがあなたに御挨拶したら、それはエゴイストというものでしょう。当地にいるどんな大ぜいの人びとの思いの中にあなたがいらっしゃることか、とても想像されますまい!それにしても、どんな人間だって、私以上に心のこもった挨拶をあなたに送るものはないことを信じていただきたいと思っています。あなたのヨハンネス」

5月10日、クララは2度目の発作により息絶えました。
ブラームスはこのとき休養で自宅を離れていました。死亡通知が遅れたうえ、汽車の手配がうまくいかず、到着したとき、すでに葬儀は終わっていました。遺体はロベルトと並べて埋められるためにボンに運ばれてしまっていました。それを追ってボンに向かったブラームスは埋葬に間に合い、棺の上に一握りの土をかけることができただけでした。

帰りの汽車には1組の若いカップルが乗り合わせていました。2人は窓を大きく開け放して座っていました。ブラームスには2人の陶酔している若者たちの喜びを妨げることができなかったのでしょうか。彼は風邪をひいてしまい、健康はもう衰えてしまいました。

聖霊降誕祭の日、亡きクララを偲ぶためブラームスと何人かの親しい友人が集まりました。その席で、ブラームスは《4つの厳粛な歌》を自らピアノを弾きながら歌って聴かせました。
そこに居合わせたオピュールという人が、その模様を書き残していました。
「それは聖書の言葉を音でもって高められた朗読に移したようなものだった。彼は特有のややしわがれた声で演じたのであるが、私たちの耳に入ったものは、芸術歌曲とはまったく別のものだった。それにもかかわらず、この夜、その作者が即興じみた演奏で歌ってくれたときに受けた力強い感銘は、以来二度と受けた覚えがない。それは聖書の預言者自身が私たちに話しかけたようなものだった。
(中略)
第3の歌ー〈おお死よ、何とおまえは苦いことか〉ーでは彼は自分で、演奏の間明らかにあんまり興奮しすぎてしまって、あの感動的な結びでは大粒の涙が頬を伝わり落ち、このテクストの最後の行にいたっては、ほとんど涙にむせび泣く声で、歌うというより、息をのむような演奏になってしまった。私はこの歌のものすごい感動をけっして忘れないだろう。これはブラームスの特徴をとてもよく伝えるもので、彼はたいていの場合、自分の柔らかい心を極度にごつい甲冑でもって包み込んでしまっていたのだ。それで、彼は、明らかに内心の感動を隠すために、最後の音が鳴りやむや否や、いきなり彼の左手に坐っていた私の脚をどんと叩いて、『これは君みたいな若い人には何にも意味がない。君はまだこんなことはぜんぜん考えちゃいけないんだ』と大声で言ったのだった」

翌年の1897年4月、ブラームスは息を引き取りました。

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