反社会的詩学のすすめ
詩について考えています。毎日。それと同じくらい、愛について考えています。生きている間じゅうずっと。
みなさんにとって詩は、詩人とはなんですか。ポエマー(笑)ですか。痛い厨二病ですか。あながち間違っていません。詩がどこまでもナルシスティックな営みであるということに関して全く異論はありません。詩は、限りなく個人的な試みです。作者以外の一切の出入りをその詩の世界に許しません。詩の中に存在するモチーフは、いかなる名詞であっても、例えば椅子やみかんや道路や黒髪、君やあなたや〈僕〉ですら、実体を持たない架空の存在です。もっと言えば存在ですらなく、ただの感傷の具現化に過ぎない。
読み手の存在する余地がない、限りなく閉ざされた空間で詩は行われます。公共の利益なんてガン無視の、利己的で排他的で生産性のない、陶酔的な自傷行為こそが詩です。
ただ、そんな閉鎖空間の行いがなぜしばしば話題になる(特に10代の間で)のかと言えば、詩の「公共の利益なんてガン無視の、利己的で排他的で生産性のない」という性質が、そっくりそのまま世間(あなた)の抱くレイジーな「若者」像に一致するからでしょう。若きウェルテルの悩み、ライ麦畑でつかまえて、三四郎、浮雲、若者の苦悩はその詩性が特定の年代の読者からの共感をあつめ、まるでバイブルのようにもてはやされます。何故。誰もはじめからお前の話なんてしていないのに。
詩におけるモチーフには、先述したように、いつも実体がありません。詩人はいつもないものを描写しようと必死です。
詩人のこう言った独りよがりな性質が世間(あなた)から嫌われるのも、何も不思議なことはありません。詩という閉ざされた営みは、社会という共同体システムに著しく反しているからです。
失われたものであるsignifiantがことばの営みを通じて意味を与えられたセンテンスになることがここで言う「回復」として捉えられます。この回復の作業は芸術ではなく、本来ならば相互作用のコミュニケーションによって行われるべきことです。そもそも美的なものの再配分は必然的に政治的である(プロパガンダ的)という事実を踏まえれば、芸術にそんな回復作用はありません。美的な活動とは常に一方的だからです。自分の抑圧されたsignifiantが芸術のメッセージ性を持って刺激されること、この「揚力」をもって「回復された」と錯覚してしまうことこそ、詩の本質の恐ろしさだと思います。それは往々にして「共感」と言い換えられます。あくまでこの世界(想像界)は絶対他者を前提としている以上、共同体がマストである訳で、ならそこでなされる回復は相互作用的で、もっと言えば公共の福祉に基づいていないといけません。だからコミュニケーションが成り立ち、社会の基盤にある訳です。詩とはこの社会システムとは正反対の位置にあります。
詩の必要のない人生がわたしには想像つきませんが、架空の他者に自分の傷口を舐めてもらわなくていいというのは健やかで理想的な生き方です。愛についての話をしようかと迷いましたが、長くなったのでここまで。
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