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眼が悪い人、あるある

中学3年ごろ、視力が一気に悪くなりました。2.0から0.3にです。
学校からも、メガネをかけるよう言われていたのですが、母が、「メガネを一度かけると、視力が元に絶対戻らなくなる。仮性近視だからいらない。」とメガネを作ってくれませんでした。。

それは高校生になってからもでした。
入学して、目が悪いからと、前の方の席に座らせてもらっていたのですが、「数学」の先生は、前の黒板と、後ろの黒板両方使う先生で、授業の前半はよく見えるのですが、後半、後ろの黒板での授業は、さっぱり見えてなくて「数学」の成績は落ちる一方でした。
メガネを作る事を渋っていた母を説き伏せてやっとメガネを作ってもらった時には、「数学」はしっかり、苦手教科になっていました。
授業の時だけメガネを掛けていたのですが、
メガネを掛けない生活では、向こうからやってくる人を友だちと間違えて手を振って、違った事がわかると誤魔化したり。また、知っている友だちからは、シカとしたと思われたり、結果、人相は悪くなる、猫背にはなってゆく、、というあるあるがありました。

人相が悪くなる

そんな不便な生活を20歳までしていたのですが、やっと、「コンタクト」というものをゲットする事ができました。
大体父が眼が悪く、メガネを掛けていたので
眼が悪くなるのも、仕方ない事でした。

画期的なコンタクト

そのころはハードとソフトはあったのですが、ソフトは6時間以上の過酸化水素水に漬けてコンセントに刺すという面倒があったし、サイズが大きくて、ビビリの私にはどうしても眼に入れる事ができませんでした。
で、ハードコンタクトにしたのですが、最初に作ったコンタクトは、酸素透過率が悪く、ある時、徹夜の撮影仕事があり、家に帰って、コンタクトを外し、寝たのですが、目が覚めたら、光が眩しくて、眼が開けられなく、目の痛みも酷く、涙がポロポロ出て来て止まりませんでした。
そこで、父に眼科まで連れて行ってもらいました。
結果は、酸欠の為の「角膜剥離」で、薬をもらって、何日も休んでいました💦
良くなるのも、一ヶ月は掛かりました。
それからは、酸素透過率の高いハードコンタクト(オーツー)にして、装着時間も考えるようになりました。

ハレー彗星が飛んでいた時ですから、1986年の冬です。
新しく出来た市の施設の屋上に天体望遠鏡が設置されていて「ハレー彗星」の見学会があり、その現場の写真を撮りに行く事がありました。

天体観測ドーム

夜、何組もの親子が、100人ほど、施設の屋上の望遠鏡を見て、持ってきていた望遠鏡も設置して見学会は、夜、暗い屋上で行われました。
親も子も、「ハレー彗星」に大興奮でした。
76年に1回やって来る「ハレー彗星」、一生に一度しか見る事が無いかもしれませんからね。

カメラマン助手をその日していたのですが、邪魔にならない様に出入り口側の壁際にいました。すると、出入りしている人とぶつかり、片方の眼の視力が突然ぼやけてしまい、
“あっ、レンズがずれた❗️”と思い、下の階のトイレに駆け込みました。
鏡で、ズレているであろうレンズを探すのですがありません❗️
冷や汗が出てきて元の真っ暗な屋上に戻り、居た場所を見るも真っ暗で、入り口にいた警備員さんに懐中電灯をつけてもらい探していました。
すると、周りにいた人達が、“どうしたどうした”と一緒に踏まない様に探し始めてくれました。
もう諦めていたのですが、その時、父兄のお父さんが「あった‼️」と見つけてくださいました。
傷も付いていなくて、暗闇で、人が一杯いる屋上で見つけてもらい助かりました。
周りの人達も自然と拍手が起こり、恥ずかしかったのですが、大きな声でお礼を言いました。
とんだ、「ハレー彗星見学会」でした。
コンタクトを探してもらえるのは、とても嬉しい事ですよね❗️
最近は1dayコンタクトが多いので、必死に探す事も無くなったのでは無いでしょうか。
みんなでコンタクト探すのはあるあるでしたけどね。
(話は少し離れますが、私の祖母は、人生で、2回「ハレー彗星」を見た人でした。)

ハレー彗星 次は、やっぱり無理だ!


コンタクト生活を50歳過ぎ迄していましたが、近視の矯正は出来るのですが、徐々に老眼では無いのですが、コンタクトをしていると近くがボケる様になってきました。
結果、メガネの方が便利で、今では遠近両用のコンタクトもありますが、別れる事を決めました。
今では、しっかり『メガネ顔』です。
これもあるあるですね。

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