見出し画像

人生第一四半期の覚書

序文

 某所でパパゲーノ効果や実際の“パパゲーノ”たちの語ったことについて読んで、色々と思い出して、ついでだから文にしてみようかなと思った。現在26歳。フリーランスだけど実質フリーター。実家暮らし。趣味は小説の執筆と、最近はお笑いの劇場通い。セクシュアリティの話は自分でもよくわからないからあまり細かく話せない。肉体的には女性として生を享けている。

※この文章には自傷行為等に関する描写が含まれますが、それらを助長・推奨する意図はありません


幼稚園

 幼少期から斜に構えた子供だったというか、「別にこうでもいいんじゃない?」という発想の強い子供だったような気がする。
 幼稚園で毎年行われていたクリスマスの降誕劇では、ずっと男の子三人で演じてきた東方の三博士を「女の子の博士がいてもいいんじゃない?」と先生に提起してカスパール役をやらせてもらった。それは別に性自認が男だったからではない。博士の着るマントがちょっといい生地でできたやつでかっこよかったから。あとかしこい人はかっこいいと思ったから。役としてやりたいと思った。それを「女の子だから」という理由で自分から諦めるのが嫌だったんだと思う。女の子だから、という説明では納得できなかった。だってこれは劇だもん。男の人の役を女の子がやったっていいじゃないか。
 ただそうは思いながらも、きっとあそこで先生が「実際に聖書に書かれていた博士も男の人とされているから、この役は男の子にやってもらうことにしている」とかなんとか言ったらきっと引き下がりはしただろう。納得はしなくても、そういうルールなのだと言われればそれを守った。いい子ちゃんだったのだ。化石発掘やピラミッドなんかの特番を見て考古学者になりたいと思っていたし、プラネタリウムに感動して天文学者にもなりたがった。ロマンチストだ。でも、ある日父がテレビか何かを見ながら「今は小児科医が少なくなっていて大変なんだよ」といったことを言ったので、じゃあそれになりたい、と思って卒園アルバムの将来なりたいものの欄に「こどものおいしゃさん」と書いた。今思えばそれは「なりたい」ではなく、「自分は親を含めた世の中全体にこどものおいしゃさんになることを望まれている、なのでその期待に応える」といった構造の応答だったように思う。実際、その後真面目に小児科医を目指すことはなかった。
 そして自分の記憶にはないけれど、何年後かに用事があって幼稚園を訪れた時、先生には「泣き虫」として記憶されていた。これは本当に覚えていない。覚えていないし、その後の私は別に泣き虫ではなかった。しばらくは。

小学校

 小学校に上がってすぐは微妙に物心のつききっていないような状態で過ごしていた。五歳で幼稚園の友達に誘われて始めたクラシックバレエをそのままやっていたけれど、この頃に関してはこれもあまり記憶にない。一年生か二年生か忘れてしまったけど、当時のクラスメイトに図書室の存在を教えてもらって本の虫になった。ハリーポッターが騒がれだした時期だった。本を読むようになって成績が上がったのか何なのか、親が興味本位でやらせた学習塾の全国テストでまあまあ悪くない成績を取って、別に勉強したかったとかではないけどもっとかしこくなりたいと思って塾に通うことにした。
 戦隊モノとかライダーとか、セーラームーンとかちょっとずつ見ていて、どれでも大抵頭脳派のクールなキャラが好きだった。親に「あなたはクールビューティーになりたいのね」と言われてへえ自分はクールビューティーになりたいのか、と思ったのを覚えている。感情を動かされるべからず。力に訴えるべからず。何かと制限の多くなるそんなキャラクター性を目指していた。泣き虫が鳴りをひそめていたのもこれの影響かもしれない。
 塾に通い、バレエに通い、高学年に入る手前とかから英会話にも通っていた。学校では相当賢い方だった。でも人間関係は苦手だった。いじめとまではいかなかったけど、クラスの気の強い女の子に面と向かって嫌いと言われ豚女と言われた。豚と人間の区別もつかないやつが言ってることに価値なんかないでしょ、と思うことにしていた。何よりその子より成績がよかった。自分より成績の悪い人間の言うことには正直価値を置いていなかった。この時はまだ客観的に自分を見る視点がなかったし、メタに割く脳のメモリがなかったけど、今思い返すとめちゃくちゃ嫌なやつだったと思う。成績を鼻にかけてずっとマウント取ってくるやつ。自分の言ったことが相手にどう聞こえるか全然考えられてないやつ。
 そのまま中学受験をしたのでこの頃のクラスメイトが今何をやっているのかは知らない。でもちょっと「あの頃はごめんね」と思っている。

中学校

 中高一貫校に進学し、この六年間は片道一時間半の通学だった。バレエはしばらく続けていた。六時四十五分に家を出る。部活があれば七時半くらいに帰ってくる。バレエが週二回、部活が週三回、土曜日もバレエ、みたいになって、そこに宿題が出る。それも小学校での、もう半年前とかに塾で習ってて百マス計算くらいするする解いて終われるような課題ではなく、当然本当に初めて履修する内容の課題が出た。なんだかわからないけど大忙しだった。それを中三の夏まで続けて、そこでバレエをやめた。部活が楽しくなってしまったから。そして、当時部内には同級生がいなかった。その当時の部長が「お前は部長になるだろうから今のうちに色々見ておきな」と特例措置のように上級生や三役の会議を見学させてくれて、ああこれは部長にならなければいけない、それもこうして育てられているのだからこの期待に応えられる部長にならねばならない、と覚悟を決めた。そのためにはしっかり部活に出る必要があって、バレエとの両立は難しいと判断した。
 あと、当時その教室の同い年の面々の中で私は明らかに太っていて(これは他のバレリーナより太っていたという意味)、下手だった。みんなは週四回通っていたから当たり前と言えば当たり前かもしれない。教室の雰囲気もストイックなものになり始めていたところで、バレエが嫌いというよりは「方向性の違いで」やめた。部活が週四になった。
 その少し前、相変わらず本の虫だった上に小五で中二病を発症していた私に中一の時の同級生が教えてくれた本で、初めてリストカットやODという行為を知った。自分がすることを考える、というよりは妙に興奮しながら読んだ。多分当時からまあまあのアレな性癖があったんだと思う。今の自分では当時の推測しかできないけれど。
 元々小児アトピーがあって、それがマシになってからも肌が弱くて、子どもの頃水疱瘡は年一でかかるもんだと思っていたくらい毎年やっていた。血が出るまで掻いてしまうけど服が汚れるし、バレエでもタイツやレオタードが汚れたりする。だからとにかく掻いてはいけないと言われたし、とにかく掻いてはいけないと思いながらここまで来ていた。なんであれ血を流してはいけないのだと。だから、かゆみによる過失でさえ許されないのにこの人は自らカッターを向けて血を流しているんだ、という思いもどこかにあったのかもしれない。多分「これやったらすっきりするんだろうな」という感覚は早い段階であった。「やっちゃいけない」の極致と「やっちまいたい」の成れの果てがそこで重なったんだろう。でもバレエがあった。少なくとも二の腕から先は常に露出する。傷なんかつけようものなら一瞬でバレる。なので我慢していた。レッスン中に鏡を見て姿勢を確認しながら「やっぱ切ったら目立っちゃうよなあ」と思っていたこともある。

 実は中二の夏に言い訳できるレベルの浅い傷を手首につけた。場所が違えば紙で切ったと言っても逃げ切れるくらいのもので、初めてのリストカットだった。小学校ではトップクラスの成績を誇った私も進学校なんか来てしまえば当然さえない成績で、これまで散々駆使してきた「でも私成績良いし」という逃げが通用しなくなった。自分より賢い人なんかいくらでもいるし、そうなると私は凡庸な人間で、つまり替えの利く人材で、ということは誰からも必要とされなくなってしまう、というような危惧もどこかにあった。要するにアイデンティティクライシスというやつだろう。この思考を極めすぎた結果、「こんなに価値のない人間はたとえ一瞬の外面のよさで友達になったとしてもすぐに失望されて捨てられてしまう、そうなるくらいなら最初から友達になんてなりたくない」というド拗らせ思想に至る。これを乗り切ろうとした私は「ぱっと見近付きにくい人間」になって初手で接近してくる人間を篩にかける、という作戦を選んだ。その結果、何を思ったかマジで中二病を極めようというベクトルに舵を切ってしまい、休み時間にメモ帳に魔法陣描いたりしてクラスの男子からだいぶ「変な奴」扱いでの絡みを受けたりしたがここはマジで闇の黒歴史なのでこのくらいにしておく。とにかく、自分というものがどこに需要のある人間なのか、もしくは「自分にしか務められないポジション」はどこにあるのか、というところでかなり悩んだ時期ではあった。そこから派生して、私には価値なんてない、こんな人間にコストを払っている周囲の人々に申し訳ない、極端に言えば「私に費やされる酸素が勿体ない」というようなベクトルの感情も湧き始めていた。
 最初の手首の傷に気付いた瞬間、母は問答無用で手首を掴んで「これどうしたの」と訊いてきて、何よりもまず断りもなしに私の体に触ったことに異常なまでの嫌悪感と怒りを覚えた。「なんで触ってんだこいつ」というところで真っ先にブチギレてしまって「ヤバいバレた」が遅れてきたことを覚えているが、その場はしっかり飲み込んでまあ乗り切った。ただこの程度の傷でも流石に「傷は傷」であるらしい、見つかれば騒がれるものらしい、ということを学んだ。そしてまた切るのはやめておいて、中三の夏にバレエをやめた。
 この中三にはすべてが集約されていた。バレエをやめて人前に体を晒す機会が圧倒的に少なくなり、同時に日常から外れたところに「冒険」してみる時間と体力的な余裕が生まれた。部活では中三になって初めて後輩ができて、それが全員女子だった。当時部内の紅一点だった私にはこの後輩たちの面倒を見るというか、一番歳の近い同性の先輩として他の先輩よりも親密に面倒を見てやるというタスクが生じた。同時に、上の学年は諸事情により若干指揮系統がぎくしゃくしている状態にあり(と私は認識していた)、なるべく負担をかけるべきではないだろうという判断もあった。結果、とにかく私が頑張って全てをフォローせねば、という精神状態になっていた。成績も芳しくなかった。これ以上順位が落ちたら部活の合宿に行かせないと言われ、「次回はもっといい成績を取ります」と正直できるわけねえだろと思いつつ口先で約束して誤魔化してなんとか参加したりしていた。自分は今この部活に必要とされていて、自分がいないと困る人たちがいっぱいいて、それなのにどうして成績だけを見て行かせないと言われるんだ、と思った。成績が悪くて価値のない人間だからこそこれ以上周りに迷惑をかけないためにも合宿は絶対行かなきゃダメなんだ、とも思った。でもそれが「楽しい合宿に行くための言い訳」なんだと感じていたから親に強くは言えなくて、成績を上げますと言った。みんながいい成績を出したら全体の点数が上がるだけで自分の順位なんか上がるわけないのにどうしてそんなことも分からないんだろうとも思いはしたけど。そういうものをなんとか上手いこと乗り越えていた。
 他人に当たることはそんなになかったと思うけど、逆に発散する先がどこにもなかった。恐らくバレエで体を動かすことで一定の昇華にはなっていたのだと思う。それがなくなって一層鬱屈したのだろう。キレるとか当たり散らすとかいうわけではないもののずっと不機嫌ではあったと思う。特に中三に上がってからの性格はマジで暴走しがちだったので、当時のクラスメイトその他には陳謝することしかできない。何がという具体性のない「どうにもならない」という感覚が強まりだしていた。この辺りからうっすらずっと死にたかった。

高校

 中三の冬、制服が長袖に変わる冬を待って、半袖になっても隠れるであろう腕の高い位置から始めた。太ももの上の方も隠れるし、靴下がひざ下までの丈だったのでそれで隠せる範囲もいった。体育は何故か真冬でも頑なに半袖半ズボンで通していたから、その服装でも隠れる範囲を狙って切っていた。折り重ねたティッシュを置き、テープで上から止める。それは手当というよりは隠ぺい工作だった。バレたくはないと思った。大事になるのが嫌だった。だって私が傷を負ってるだけじゃん。傷を負って、それで精神的にちょっとだけすっきりして、不機嫌が緩和されて、みんなとちょっとだけ仲良くできる。別にいいじゃないか。私は傷を負うのは嫌じゃないんだ。正直もう死んじゃいたいなってずっと思ってるけど死ぬくらいなら切った方がいいよね、だからこれはベターなんだよ。最悪じゃねえんだわこの結論。だからこれで上手く回るんだったら何の問題もないわけ。こんなものには気付かずに最近機嫌いいねって笑ってくれ。そんな気持ちで。
 そのまま中三の冬を過ぎて春になり、高一に上がった。部内では役職がつき、後輩が増え、部活の終了時刻は一時間伸びた。若干ながら大学受験に向けてのプレッシャーも強まり始める。瞬く間に夏服の季節がやってきた。

 まあバレた。
 怪しまれてはいたけど「なんでもない」の一点張りでごまかしていた。それがしばらく続いてからとうとう、風呂に入ってる最中に突撃してくるという大胆な作戦によって母に裸と傷を目撃された。この時点でもうだいぶ嫌だったのだが、そこから三時間近く裸で湯船に浸かったまま「なんでこんなことするの」「なんでとかないよ」というガチで不毛でしかないやり取りをされ、風呂を出てからもまた同じやり取りが続いた。何万回目かなこれ、みたいな「なんでこんなことするの」に冷笑しながら「それが分かってたらとっくに解決してるでしょ」と言ったのを覚えている。この時も私はクールビューティー志望の残滓を残した中二病だった。もう二度としないで、と言われた。じゃあしなくていい環境をそっちが用意してくれ、という台詞を飲み込んだ。母は恐らく正しかったから。
 腕を切るのは控えたが靴下の下に関しては相変わらずこっそり切っていた。何よりここはテープが要らなかった。折ったティッシュを靴下の下にかませればそれで済むし、最悪染みてしまっても紺だからそこまで目立たない。母はそれも見ていた。制服の私が食卓についている時に突如テーブルの下に潜り込み、靴下にほんの少しだけできた不自然なふくらみをむんずとつかんで「またやってる」と言った。触んな気持ち悪い最低、が最速で感想として浮かんだが飲み込んだ。最小限の振り払う動きと共に「やめてよ」と言ったが母は離さなかった。これはもう分からせるしかないと思った。そのとにかく見つけてやめろと言うという対処法は私のこれを止めるのに何ら意味がないということを分かっていただくしかないと思った。逆に躍起になった。切る場所がかなりギリギリを攻めたものになっていった。
 最終的にまた長時間の不毛なやり取りになり、母は自分で家の文具箱からカッターを持ってきて自分の腕に当てた。「こうやるの?こうするの?ああ痛い、でももっとするんだよね?あんたの傷こんなもんじゃなかったもんね?」と実演形式での拷問を試みた。マジで拷問だった。嫌すぎた。怒りその他のぐちゃぐちゃな感情を抑え込むので精いっぱいで目を背けるしかなかった。そんなことしたって何の足しにもならないよ、と母に言った。分かってんじゃん、と母は言った。分かってねえよ。「切らなくても生きていける人間が切るって行為だけ真似したって何のメリットも感じられるわけがない」ってことだけが分かってんだよ。こっちが何のメリットもないただ「痛くて辛くて苦しいだけの行為」を毎日毎日やってるわけねえだろそんなことも分かんねえのかバカ。と、思った。言わなかったけど。ここまで書いてきて、思った割に言わなかったことがえらく多かったということに気づいた。ずっと「自分に理解できることが理解できない他人」を見下して生きてきたツケがこの、「分かんねえ奴には言っても無駄」というスタンスだったのだと思う。こっちの感じている怒りとか苛立ちとか、そういう感情の多くは「Be cool」の信条に封じられ、残りの部分は「馬鹿には分かんないから言わない」で言語化されなかった。勿論、それらを言語化することで始まるであろう論戦に積極的に向かっていけるほどのエネルギーがなかったということもあるだろうけれど。結局喧嘩別れのようになって自室に逃げ帰って、力づくで扉を開けようとする母を拒むために勉強机の可動式の引き出しの部分をかませて引きこもった。めちゃくちゃ泣いた。どの感情の何で泣いたのか分からないけどめちゃくちゃ泣いた。

クッキーの思い出

 この時、泣きながらひとりの友達に「ごめん、電話していい?」というようなメールをしていた。ここでも私は他人からの期待で動こうとしていた。要するに、誰かに「自傷行為をやめる」という旨の宣言をして、それによって生じる責任によって自分の行為を縛ろうという算段だった。そもそもリストカットを「やめるべき悪いこと」とは認識していなかったのだから、正当性でやめられないものはこうやって縛るしかないと思った。
 相手は同級生の男の子で、保健の授業かなんかで移動教室になった時にたまたま私が座ったのが彼(か、もしくは彼の友人)の席だった。そこに落書きをして、次の時に見たら返事のようなものが書かれていて、それがきっかけで知り合った。特段趣味が合うでも共通項があるでもなかったけれど、何となく話しやすくていい友達だった。別に親友というほどでもないし、知り合って長いわけでもない。電話なんかしたこともない。こっちを知りたがるでもなく自分を知ってもらいたがるでもない、でも雑談が楽しい。そんな絶妙な「他人」感がよかったのだと思う。仲のいい友人たちには弱みを晒したくなかった。弱みは欠点であり、言わば「査定でマイナスに響く」要素だと考えていた。これを晒せば失望され見捨てられる可能性があると見た。だから、この人ならきっと失望しない、失望されてもそこまで苦しくない、明日以降の学校生活に響かない、という推測が恐らくあった。
 彼はすぐに電話に出てくれて、「どうした」と何気ない調子で言った。その響きがあまりにも何気なかったから、気が緩んでまた泣いた。泣きながら、「リスカやめる」と言った。こんなことに付き合わせてしまっているのが申し訳なくてごめんねと謝りながら同じ台詞を繰り返して、そこからはもうどうしようもなく泣いた。情けない、こんな程度の苦しみで泣くなど情けない、とは思いながら。
 彼は暫く黙り込んだ後で、「うん」とだけ言った。きっと言葉を探してくれたんだろうと思う。でも結局何も言わないまま、こっちがある程度泣き止むまで待っていた。それから徐に、「今ね。リビングで妹がクッキーを焼いてるの」と言った。これは本当に鮮明に覚えている。不意打ちだった。それから、いつもよりゆっくり、丁寧に言葉を切りながらリビングの描写をした。「バターのいい匂いが家中に広がってるの」とか。彼の家に行ったことはない。でも、あたたかい午後の日差しの中でクッキーを焼いている彼の妹と、その手伝いをしている彼の母と、それを眺める彼のやさしいやさしいリビングの情景を、そこに満ちていたはずの甘いバターの匂いを、未だに私は「覚えている」。聞きながら少し笑った。おいしそう、と言ったと思う。「マシになった?」と彼は訊いた。元気になった?とかじゃなくて「マシになった?」と言ってくれたのがまた絶妙に上手くてしっくりきた。お礼を言って、じゃあまた明日、と電話を切った。また少し泣いて、落ち着いたところで部屋を出た。物音を聞きつけた母がすっ飛んできて廊下で仁王立ちして私の進路をふさいだ。
 ここでの会話の細かい部分は覚えていない。やはり「なんでこんなことするの」だったのだと思う。わからない、というようなことを言った。わからないけど切りたいから切るんだ、でも切るのは悪いことだって分かってるから余計に苦しくなってまた切るんだ、というようなことを主張しながらまた涙が出てきて、母が堪えきれなくなったように駆け寄ってきて私を抱きしめて、馬鹿だね、と涙声で言いながら私の尻を叩いた。これは一見感動的な雪解けのシーンに見えるかもしれないがマジで全てが最悪だった。だから無許可で私に触るなバカが、という嫌悪感と怒りと呆れでいっぱいだった。それが適切に言語化できなくて歯を食いしばって泣いた。本当なら即座に突き飛ばして触るんじゃねえクソババアくらいは怒鳴りつけてやりたかったし実際それを想像したりもした。それでも母の反応は正しいというか、私に尊重されてしかるべき正当なものだと思った、だから母が泣いているのが分かってもこんなやつ絶対に抱きしめ返してやったりしねえとだけ強く思って、何の反応も返さずにやり過ごした。斜め上に設置した空想のカメラから現状を眺めて「あーら感動的だこと」と心の中で皮肉を言った。そこが自分にできるギリギリの反抗だった。
 結局その後も自傷は続いたし、例の不毛なやり取りも何度かした。その度に次こそこう言ってやろうという文言を温めて、何度目かの時にようやく「そうやって指摘されると意識がその行為に向いてしまって余計にやりたくなる、こちらはこちらで回数を減らしてやめる方向で努力をしているからいちいち口を出さずにこっちに任せてくれ」という内容のことを伝えることができた。一体どのくらいの期間を要したのかは忘れたが少なくとも高校在学中には言えたと思う。それ以降は向こうが言及する頻度も格段に減って、言及した際も「ああまた」と言って顔を顰めて見せる程度になった。こちらも「ああ。はいはい」と適当に流していた。一度「あんた本当にやめる気あるの?」と不満をぶつけられたことがあり死ぬほどムカついたが、「やめる気あってもやる時はやるし、なくてもやらない時はやらないんだから黙って見てろ」という程度の内容に押さえたと思う。
 ここまでに書いた母との攻防は非常に長く、正直高校生活のどのタイミングで発生したイベントだったのか正確には思い出せない。ただ、彼との通話の内容は未だに自分の中で大きな支えになっている。それは間違いない。この頃の思考はふたつの原則で回っていた。「人の役に立たない上に自傷しなきゃまともに生活もできないごくつぶしのカスなんか死んじまえ」と「人の役に立たないごくつぶしのカスな上に死んで他人に迷惑かけるなんて最悪すぎるどこ切ってでも生きて最低限迷惑かけんな」だ。このふたつを餅つきみたいにうまいこと組み合わせながら、切りもしない死にもしないすれすれで生存していた。どうしてもバランスが崩れる時は切る側に振って死なないようにしていた。恐らくストレスで上手く眠れていなかったのだろうと思うが、夜眠りに落ちる時に「このまま二度と目が覚めなかったらどうしよう死にたくない」と思って泣き、泣きながらどうにか眠って、アラームで目が覚めたら今度は「今日もまた一日生きなくちゃいけない死にたい」と思って泣く、というバグりすぎているイベントもちょくちょく発生していた。文句なしにここまでの人生で一番きつかった時期だと思う。その中でもあのクッキーづくりの情景だけは支えだった。「切るくらいなら死ね」「死ぬくらいなら切れ」の餅つきのどちら側にも一切関与しない事象だった。恐らく、自分の不甲斐なさを責めるという行為につながるようなアンカーが一切ない純粋な「救い」のイメージだったのだろう。これだけはいつ思い出しても気分が和らいだ。
 高二の冬に部活を引退して受験勉強に専念することになり、少なくとも部長としての責任のようなものからは徐々に解放されていって、そこで少しだけ状況はマシになった。高三の一年間も自傷自体は断続的に続いていたものの、受験というものがあくまでも個人戦で、究極的には自分の人生だけに関わることであって、部活や人間関係のような「自分の失敗で他人に迷惑をかける恐れのある」ものではなかった、というところでストレスのかかり方が段違いに軽かったのだと思う。志望校を背伸びしなかったこともあってどこかで「まあ受かるでしょ」という余裕もあり、この一年は忙しくも楽しく過ごした。卒業式の日に担任の先生の話を聞きながら感極まってちょっと泣いた。「この六年間いろんなことがあったと思います」みたいなこと言われてマジでその辺色々ありすぎたので何かと一入だった。最前列のど真ん中、教卓の真ん前の席だった。周囲にクラスメイトや自分の親が立って並んでいる環境で泣いてしまい、先生に「泣くな!」とちょっとおどけて言われたのと、それを聞いた後方のクラスメイトの「えっ泣いてんの?」「マジで? 嘘だろ?」みたいなざわざわを記憶している。
 その先生に卒業してから会った時だと思う、「お前は完璧主義なところがあるから」と何かの拍子にそう言われた。暫く咀嚼して、数日とかのレベルで時間が経ってから腑に落ちた。ひとつでもミスをすれば自分は「凡人」で、誰かと替えの利く存在になってしまうと思っていた。替えの利く存在ならいずれ相手の都合で簡単に捨てられるのだと。それが怖くて、「こいつはどうしても捨てがたい」という人間になるしかないと思って、そのベクトルを追求した結果一ミスも許されない状態にずっと自分を追い込もうとしていたのだと思う。勿論何をミスとするかにもよるのだろうけど、自分の場合は「どんなに人当たりが悪くても態度が雑でも仕事の能力値は高いし規則もしっかり守る」というようなところでバランスを取ろうとしたのかもしれない。その方針が正解だったかどうかは分からない。そもそも体現できていたとも思えない。でも、このトンチキ完璧主義に早い段階で気付いて是正することができていれば、もう少し事態はマシになっていたのかもしれない、とは思う。

大学

 大学に上がっても相変わらず自傷を続けていたが、大学に入って「サボり」という最強の手札を手に入れてしまったことにより人生は大きく改善した。高校までは家にもいないし学校にもいかない、という逃避行動がとれなかった。皆勤賞をかなり重視している親にサボりの連絡が学校から行ったら大変面倒なことになるのが分かっていたからだ。だが大学は、言い方は悪いが単位さえ取れればサボり放題である。別に親に連絡もいかない。最初は「親に学費を払ってもらって通っているのだから当然取れる限りの講義を取って得られる限りの知識を身につけるべきだ、そうでなくてはならない」くらいの優等生思考でいたのだが、通学が片道二時間に伸びたこと、サークルの終了時刻が高校の部活よりさらに遅くなったこと、何故か一限に固定された必修科目などの条件によりみるみるうちに体力と睡眠時間が削られ、もうこれちゃんと来て座ってるだけえらくねえか、という気持ちになっていった。最終的には単位を押さえることに特化した大学生になったが、サボったコマで課題をこなすとか、大学図書館に行って文学全集を読んでみるとか書きかけの小説を進めてみるとか、部室に行って他の部員のスマブラを観戦するとか、まあまあ有意義な自由時間を過ごしたことは無駄ではなかったと思う。何よりこういう適当な時間を過ごすことで精神的に余裕が出てきていたから、以前より腰を据えて自分の現状に向き合うことができるようになった。
 三年に上がった時、毎春の健康診断で行われるメンタルの問診が3年連続で「要再検査」になったことをきっかけに大学のカウンセリングルームに足を運んだ。これがまた大正解だった。カウンセラーさんには大変申し訳なかったが、予約時間いっぱいいっぱいを無言で通しても怒られないし急かされない、というのが非常に大きかった。
 先程母との攻防について書いていて改めて思ったけど、当時の私は考えていることがまあまあはっきりとある割にそれを言語化することがあまりにも少なかった。特に「ムカついた」や「キモかった」というように怒りや嫌悪から来る言葉は、あくまでも私の感想であってただただ相手を傷つけるだけだと思っていたし、その程度の感情を抑えられない人間は幼稚だという考えもあった。カウンセリングではたった一言の言いたい言葉が最初から最後まで喉に引っかかって出ず、部屋を退出しようという段になって荷物を持って立ち上がったところで初めてぽろっとこぼれる、というような回もかなり多くあったが、「いつでも人に好きなことを言える」環境で自分の思考を見つめ直す、という行為は慣れてくるとかなり生産的だった。あと本当によく泣いた。カウンセリングルームに入って、体調はどうとか眠れているかとかのいつものやり取りがあって、あとは黙り込んでしばらくしてボロボロ泣いてそのまま時間終わって洟かんで帰るみたいな日もあった。泣くというのも、どこかで「泣いたら負け」というような、自分の主張を論理的に伝えられずに剥き出しの感情で訴えかけるというのは手詰まりになっているということだし、それは実質負けなのだ、という認識があった。そういう感情の出し方があってもいいしなんならあるのが普通だ、ということをここで思い出していった。そういえば泣き虫だった。
 大学の講義で要求される「このことがらについて自分はどう思うか」「このことがらについてこう思っている自分は何を根拠にそう思っているのか」という二段階での分析と言語化という過程も寄与して、小学生の頃から致命的に欠けていたメタの視点がここでやっと備わりかけてくる。また、この時カウンセリングルームで地道に行っていた箱庭療法も自分の中では大きかった。これも全く何も作れない回など往々にしてあったが、自分の作ったものを通して自分を客観的に見る、ということに非常に役立った。あと砂遊び普通に楽しかった。マジでつらい時は五歳児になればなんとなく解決の糸口が見えてくるな、というのも砂を触りながら覚えた。
 高校生の頃か何かに見かけた文面で「死にたいと言っている時、よくよく考えてみるとそれは『死にたい』じゃなくて『もう何もかもすっぽかしてハワイとか行きたい』だったりする」というようなものがあったのだが、メタ的に自分を見るということができるようになってきて初めて「これはマジで死にたいのか? それとも『ハワイ行きたい』ってだけか?」という自己分析ができるようになった。あと別にハワイ行きたいと思ってもいいんだな、というのもここで得た。そこから、限界すぎるというか、「限界すぎる」の二歩手前くらいまで来た時に、五歳児になって己の「ハワイ」を見つけるという対処法も見つけた。「もう無理だ」と思った時には漢字ではなくひらがなで「むり!」と人知れず吠えてみるものだ。あとは「おなかいっぱい」と「あったかい」があれば人間ギリどうにかなるような気がする。でもそれは最低限で、それ以上の望みとしての「ハワイ」が自分には存在した。何も生み出していない、何にも寄与していない自分が何かを望んではいけないと思っていたけど、そんなことないらしい。別に何もしてなくても、甘いもの食べたいなら甘いもの食べていいし、寝たいなら寝ていい。これも最初の頃はまだ若干気が引けていたものの、バイトで自分の使うお金を得られるようになってからは罪悪感が少し薄れてやりやすくなった。行きたければ行っていいのだ、「ハワイ」に。対人面も、感情表現を我慢したり偽ったりして「いい人間」である必要はそこまでないと分かって、いい意味でバカになれるようになってから格段に楽になった。
 大学院まで行ってのんびりそれらと向き合って、一瞬就活でバッドに戻りかけつつ、まあいいや生きてれば、くらいの適当さでフリーター的なところに決めて、十八時始業二十七時終業みたいなアルティメット自己責任フレックス制労働で趣味と仕事を楽しみつつ今に至る。

結論

 こう見るとやはり大学でカウンセリングに通い始めてからの「マシになりっぷり」は凄かった。これはカウンセラーさんが魔法の言葉をめちゃくちゃかけてくれたおかげで元気になった、ということではなく、自分で自分の状態をモニタリングできるようになったことが非常に大きかったということだ。「なんでかわかんないけど切りたくなる」としか言いようがなかった部分を、「なんでかわかんないけどこの流れだと切りたくなりそう」というように一歩踏み込んで解像度を上げて、それの積み重ねから「どうもこういうのあると切りたくなるっぽい」という傾向と対策までもっていく。その基礎はカウンセリングルームでしっかり見て学べてよかったなと思う。
 ここで得た知見のひとつに「生理前後のリストカット欲求は格段に膨れ上がる」というのがあって、要するにPMSの二次被害としてその選択肢が浮上してしまうらしいという予測が立った。勿論因果関係は明白でないけれど、そういう詳細が朧気ながらも分かりはじめたことで自分の「切りたさ」への対処はより戦略的にできるようになった。「うわー切りてえ……ああちげえわこれPMSか、なーんだ、じゃあもう無理だわアイス食ってゲームして寝よ」みたいな撤退戦略が取れるようになったと言ってもいい。自堕落すぎる、甘えだという感覚は抜けないけど、仕事を始めたことで「でもやることは最低限やれてるじゃん」がカウンターで繰り出せるようになって、上手いこと開き直れている。
 でも自傷が「治った」とは言えない。直近で切ったのは四か月前で、これは一見「最近」のように見えるけど、週に二、三回切っていて体にティッシュの張り付いていない日のなかったころに比べれば激減している。正直拍手を送ってもいいと思えるくらいめっちゃ間が開いている。でも切ってはいる。多分またそのうち切ると思う。自傷用の刃物は持ち歩いているし、「死にたいな」っていう感情も相変わらずどこかにはあるし、いつもはうっすら程度でもタイミング次第で猛烈に膨れ上がる場合もある。ちゃんと見ることができればあーはいはい「ハワイ行きたい」のねってことになると思うけど、その分析が出来ないままもやっとした「死にたい」としてしか感じられない時もある。多分少なくともまだ数年は確実に付き合うんだと思う。ただ、そういった感情や痛みをここまでちゃんと言語化できたのは初めてで、そこには進歩を感じる。過去のものになりつつあるというと言い過ぎだろうけど、振り返って眺められるくらいの距離は前に進んだんだなと感じる。
 いっぺん変な方向にぶっ壊れてしまったバランスを元に戻すのはもう無理だけども、ぶっ壊れてるなりに人と違うバランスで生きられるんなら別にそれでもいいじゃない。と今やっと思う。別にそれでもいいじゃないと思えるところまで来られる人間もちゃんといるよ、という前例は一応ここにいるということだけ書いておきたかった。ぶっ壊れないに越したことはないということは間違いないとしても。

 以上、人生第一四半期の死にたみに関する覚書。
 こいつが書けるようになるところまで来たお前はえらい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?