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その1 こころえる  ② もともとの自分を思い出す 自分を信じる道

若い頃、大人たちに比べて自分が未熟過ぎると思い込み、「自信?それは何ですか?」のオドオドな自分だったことを、今でもありありと思い出す。

社会に出ると、経験も情報も自信も足りないうえに、どんなに努力しても不足があるような焦燥感に絶えず苛まれていた。他人様に笑われないよう、嫌われないようにと常に緊張し、負けたくない競争心が自分を追い立て、女性であることからの社会的物理的な制限、見た目や可愛げなども評価項目として付加され、有能は学力と異なる不明確な基準だから、更に戸惑った。

世間様のモノサシは、柔らかな若い心に「様々な理不尽な基準」を押し付けてきていると圧を感じていた。それは、何かの用を果たしていたのかもしれないけれど、わたくしにとってはへんてこで居心地の悪いモノだった。そのせいで、この世界での寄る辺なさと不安感を常時抱えていた。自分よりも年かさの人々は、まるで気に留めるふうもなく日々を問題なく進んでいるように見えた。自分もそのうち平気になるのか、とぼんやり期待していた。

これはわたくしだけでなく、同世代の人たち共通の心境のように思う。なぜなら当時「自分探し」と称して、バックパッカーでインドなどの異文化に触れあう旅に出ることや、自己啓発セミナーという名の悪質商法がとても流行っていたから。(今もサロンやセミナーなど活発らしいが)

それらの誘惑には、わたくしの用心深く疑り深い性質が発動し、「自分は此処にいるじゃないか」「遠い未知の国に出かけずとも、国内でもどうにかなるはずだ」「自分を啓発するのは、テクニックよりも本をいっぱい読んだ方が安全そうだ」などと乗らなかった。そして、とにかく自助努力と、無駄な?あがきをしていたが、最低限、被害者にはならずに済んだのは幸いだった。

時代は勢いづいてドンドンと前のめりになっている中で、自らの在り方や先行きに不安感を持つ若者が、心理的にも物理的にも彷徨っていた状況から生じた世情だった。学内でもあやしい宗教団体や、思想関連などの魔の手が伸びている話がたびたび耳目に届いていた。

たまたま夏休みのバイト先が行政の消費者窓口で、悪質商法などの相談業務を見聞きして「世の中では油断すると騙されて、ひどい目に合うようだ」と学習できたのも、運が良かった。

自分の生育環境や置かれた現状からくる制限、今どきの言い方なら「親ガチャ」みたいなものに抗っていくためには、ひたすら頑張るということが推奨される風潮もあった。(今はシニカルな諦めモードも多少あるようだけれど)そのために、余計に世間のモノサシにできるだけ沿う自分であるように、と気負っていた。

が、段々とわかってきたのは、そのモノサシは何本もある上に、相手やシチュエーションが変わると伸び縮みまですることだった。

更に、複雑なのは、そのモノサシは、適応しすぎてもダメ出しを食らう厄介さも備えていた。職場で「仕事ができるんだってね。」と面と向かって年長の男性から揶揄うように嫌味を言われたこともあり、わたくしは当時かなり混乱していた。

お陰様で、今の年になって漸く「そんなモノサシ勘弁」と言い放てるほどになれた。他人のモノサシなんて、このモノサシストさんの名演奏↓以外はいらないと断言できるほどに(笑)

話は戻って、今どきはそれほどあからさまではないのかもしれないけれど、地道に努力で獲得したことに対してさえ、生意気や分不相応などとイチャモンのような物言いを受ける女性はやはり無数にいるだろう。こういう理不尽な仕打ちを受け続けると、人間は自信を持てなくなる。その弊害は本当に大きいものだ。

そこで、今回心得たいは、↓の4の意味の「気を付ける」である。

「心得る」とは コトバンクによると、
物事事情や意味するところをよく理解する。のみこむ。わきまえる。「扱いを―・えている」
事情をよく理解したうえで引き受ける。承知する。「―・えました。おまかせください」
たしなみがある。会得している。「茶道少しは―・えている」
気をつける。用心する。
「ころび落ちぬやう―・えて炭を積むべきなり」〈徒然・二一三〉

の意味を有する言葉である。

では、何をこころえる(気を付ける)のか?「自分を見失わない」ように、である。

あの頃、二十歳ごろから社会人になって数年を合わせた、あのちっとも楽しくなかった時間は、わたくしが、自分らしく生きていなかった期間である。あんな状況に再び自分を置くことは決してしない、と強く心に決めている。

ここに、うまくまとめられている記事があった。↓

還暦まで生き延びてきて理解したのは、自分らしくとは、自分のモノサシを大切にするということ。わたくしの人生に責任を持ってくれるわけでもない世間のモノサシに振り回されるとは、今風の言い方では「自分軸で生きていない」と同義なのだ。

自分軸は、わがままではなく、自分は何を求めているのか、感じているのか、というシンプルな自己覚知を土台にして生きるということである。

わたくしを中心に据えて、瞬間瞬間の選択を重ねて人生の完成に向かって進んでいく。それが自分らしく生きるということなのだから。還暦を過ぎれば、さらにいっそうここに注意を払って歩みたい。

そして、今こそ自分の中のモノサシについても再確認をするべきだと感じる。その作業が、「ビリーフチェンジ」↓である。

改めて自信を定義すれば、「自分を信じること」である。この世でずっと共に生きてきたのは他ならぬ「自分」だ。それは他者に強気で向かうためのものではなく、ただ、自らを頼りに心強く生きること。そうすれば、安定した心持で毎日を暮らすことが叶うのではないか。

それは、○○が得意などというスペックや、Aさんより優れているなどの他者との比較、裕福かどうかにはまったく関係ないことがらなのである。↓の記事にあることが大きなヒントになると思う。

よくよく思い出せば、もともとの自分は、誰かや社会のために存在するのではなく、ただ存在しているのだった。つまり、余力やオマケくらいの分で、お役に立てればラッキーでもう十分なのだ。これまで捕まっていた?自ら絡んでいた?「みんな」や「しがらみ」や「ねばならない」からも自由になる時が来たのだ。

還暦過ぎれば、心身の衰えは自然とやってくる。その当たり前なこともすんなりと受けいれて、これまでの60年で培った自分の個性を大切に、これからも機嫌よく生きるため、本来の自分を信じる道に戻ろう。屹度それが自分も周りも扶けることになると思うから。

「いつも明るい」という花言葉のルリマツリ 爽やかなブルー似つかわしくて

最後までお読みくださり、ありがとうございます。桜梅桃李


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