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【映画評】オットー・バサースト『フッド:ザ・ビギニング』(Robin Hood, 2018)

 リチャード1世獅子心王のリの字も出ない、ローマ法王権がなぜかノンティンガムやロックスリー領の支配権に何かと口を出す世界で、カトリック対イスラームではなく、富裕層対貧困層という対立軸のもとに描かれる「現実」の物語。
 リチャード獅子心についてはその「死」どころか存在についてすら言及されず、ということはロビン・フッドの活躍や勲功を承認・賞賛する者は初めからないのだし、当然、仇敵となる王弟ジョンも登場しない。ロビンもムスリムのリトル・ジョンから兵術を学ぶなど、完全に(カトリック側から見れば)テロリストと化している。挙句の果てには、ロビンとマリアンとは不倫関係にあるのであった。
 ということで、今回の敵はノッティンガム代官とその手下ギズバーン、そして彼らを操るローマの枢機卿である。決戦の舞台はこれまたなぜか鉱山で、シャーウッドの森は――ラッセル・クロウ版『ロビン・フッド』(2010)同様——最後の最後に逃避先(ユートピア)として登場するに過ぎない。コスチュームも画面もほとんど真っ黒で、冒頭のアクションは完全に9.11以降の湾岸戦争を参照している(上図)。
 ‪この度のロビンは――ショーン・コネリーやラッセル・クロウが扮したロビンに比べれば――「若さ」については、かろうじてこれを取り戻したといえるだろう。しかし、その「若さ」はどこから来たのか。当然、ロビンを演じたT・エガートンが若い(29歳)からなのであるが、その割に、彼は「城門越え」に代表されるロビン映画に特有の大跳躍(垂直軸における重力を無視するかのような運動)は殆ど行わず、パルクール風の水平軸における運動を続けるのみである。
 「横滑り」する物語に「落ち」がつかないのも道理であろう。

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