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【映画評】キング・ヴィダー監督『ステラ・ダラス』(Stella Dallas, 1933)

 本作(注1)の冒頭、男たちが――終業の時間なのであろう――工場の門を出てぞろぞろと帰路につく様子が映される。この短いシークエンスは、リュミエール兄弟の『工場の出口』(1895年、仏)を彷彿させる。ただし、リュミエール兄弟の「工場の出口」が実際に彼らが所有していた写真工場のそれであったのに対し、『ステラ・ダラス』の方は紡績工場の出口で、どうやらこちらは完全にスタジオ・セットとして組み上げられたもののように見える。
 キング・ヴィダーは、『工場の出口』がパリのグラン・カフェで上映される一年前、1894年にテキサス州に生まれた。サイレント期にハリウッドの映画監督となった彼は、トーキー化(1929年)、ヘイズ・コード(映画製作倫理規定)の採用(1930年)、カラー化(30年代末)といった、映画業界の大きな変化を全て経験しながら、それでもなお、質の高い作品を作り続けた押しも押されもせぬ名匠である。
 しかし、ヴィダーがその本領を発揮したのがいわゆる「ハリウッド黄金時代」であったことは、彼の「作家」としての評価が今現在においても定まらない要因の一つとなっているだろう (注2)。なぜならば、ハリウッドの黄金時代(1920年代~第二次世界大戦直後)とは、とりもなおさず、スタジオ・システム (注3)とスター・システムの全盛期を意味するからである。しかも、この時期のハリウッドは、父権制の代名詞の如きヘイズ・コードを遵守せざるを得なかった。つまり、それは、監督が「職人」と呼ばれることはあれ、「作家」的個性を発揮していたとは考えられもしない時代だったのである。
 『ステラ・ダラス』は、そんな「職人」ヴィダーがトーキー化直後の試行錯誤を経て、最も洗練された形で完成させたスタジオ製映画の一つだろう (注4)。カメラマンにはルドルフ・マテを迎えている。彼は、カール・ドライエルの『裁かるゝジャンヌ』(28年)やアルフレッド・ヒッチコックの『海外特派員』(40年)、エルンスト・ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』(42年)を撮影した名カメラマン中の名カメラマンである。
 さらに、母親役を演じるスター、バーバラ・スタンウィックはこの作品で「1930年代から60年代に至る彼女の長い女優歴のなかでも最高の演技(ベスト・パフォーマンス)」を見せた(山田 266)。要するに、これは、ハリウッド・スタジオ・システムがヴィダーやマテといった「名職人」、及びスタンウィックという稀代の「名スター」を得て生みだした最良のメロドラマなのである (注5)。
 とはいえ、スタジオ・システムやヘイズ・コードといった高度管理体制下における「洗練」や「最良」が、即座にアン・カプランがいうような父権制社会を反映するとは限るまい。カプランの一世代前のフェミニズム映画批評家、クレア・ジョンストンが指摘したように、父権的管理体制の下で製作された「ハリウッド古典」作品にこそ、その体制を覆す契機は孕まれているのではないだろうか(Johnston)。
 例えば、『ステラ・ダラス』におけるステラの笑い声がそれである。彼女の豪快な笑い声は、スタジオの中あるいはカメラの前で何重にも管理されたステラという「役柄」の身体を越え、これを演じるバーバラ・スタンウィックという人間(女性)の豊かな身体性を誇示する(注6) 。
 いや、私を最も驚かせたのは、赤ん坊時代のローラの泣き声だ。本来、赤ん坊とは「演技」とは最も無縁な存在である。だから、映画に登場する赤ん坊の身体は、ほとんどの場合、アフレコの声(泣き声)をポスト・プロダクション時に(事後的に)付与されて画面に現れる。ところが、『ステラ・ダラス』では、食事をする赤ん坊の――決して演技などはしていない――身体が持続的にカメラに収められ、あまつさえ、その泣き声までがこれに完全に同期せしめられているのである (注7)。「自然」を超えて「野生」をすら感じさせる身体がここにはある(注8) 。
 さて、カプランは、この作品をして(父権制に対する)「共謀型メロドラマと抵抗型メロドラマとの中間線上に設置したい」(カプラン 150)などと、どちらともつかない評価を下す。畢竟、カプランに悪印象を与えたのは、一旦は「反逆的要素を備え持つ」かに見えた本作が、再び「階級とジェンダーの主要父権制イデオロギーへと、観客を引きずりこむ」(同 167)ラスト・シーンなのだ。しかし、上記のような「身体」事情を踏まえるならば、山田宏一の以下の評価の方を採用したくなる (注9)。

 バーバラ・スタンウィックは、娘の晴れの門出をものかげからそっと見送りながら自己犠牲と別離のつらさに泣く落ちぶれた母親のようにみじめに、みすぼらしくうなだれ、肩を落としたりはしない。娘の結婚式場の鉄柵にしがみついていた彼女は、通交の邪魔になるからと警官に注意され、やむを得ずその場を離れるのだが、次の瞬間には、思い切りよく、くるりと背を向けて立ち去っていく。キャメラは彼女の顔をとらえてみせるが、その眼に涙はない。娘の幸福をしっかりと確かめたあと、自分のすべてを捨て、きっぱりとあきらめた「女」の晴れやかな表情が顔いっぱいにかがやいているのだ。そのいさぎよさこそバーバラ・スタンウィックの魅力といっていいだろう(山田 268)。

 冒頭に示された「工場の出口」は、ついに父権的映画工場=スタジオ・システムからの出口である。

注1: 周知の通り、『ステラ・ダラス』はヘンリー・キング監督、ベル・ベネット主演で既に1925年に映画化(サイレント)されている。H・キング版は、「日本の母もの映画、とくに昭和初期の母性愛映画に決定的な影響を与えたことは、『悲しき女性』『女給』『向日葵夫人』、といった家族悲劇の題材として翻案されたということからもわかる」(山田 266)。
注2: 無論、63本ともいわれる「多作」も彼の「作家」としての全体像をつかませない要因の一つだろう。
注3:スタジオ・システムとは、限られた映画会社が製作のみならず配給までをも一元管理する体制だった。
注4:ヴィダーとトーキー化の関係については佐藤に詳しい。
注5:ただし、佐藤によれば、『ステラ・ダラス』の公開はプロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンの反対で一時期危ぶまれていたという(佐藤 165)。
注6:マテのカメラは頻繁にスタンウィックの全身像を捉える。『ステラ・ダラス』は女優の身体をカドラージュやモンタージュによって断片化することは極力避けているように見える。
注7:ここでもまたリュミエール映画が想起される。もちろん、映画に初めて〈食〉を登場させた『赤ちゃんの食事』(1895年、仏)のことである。中条省平は「この画面を前にして、ここにはたしかに人間存在そのものの幸福の瞬間が記録されている、という感嘆の言葉しか出てこない。その幸福のまったき享受者である赤ちゃんは、まもなくこの幸福の記憶を喪失してしまったであろう、映画に残されたこの情景がなければ……。人間存在の甘美にして残酷な一回性を、また〈食〉という行為の充足と幸福を、これほど鮮烈にとらえた映画はほかに存在しない。(中略)こと〈食〉に関しても、ルイ・リュミエールの『赤ちゃんの食事』は決定的なアングルを選択し、映画における〈食〉の原風景を生みだしたといっていいだろう」と指摘する(中条 106‐107)。『ステラ・ダラス』の「赤ちゃんの食事」はその黒白トーキー映画における最も幸福な再現とはいえないだろうか。
注8:アントワーヌ・ド・ベックは、1956年に『素直な悪女』に出演したブリジッド・バルドーについて「彼女が登場したことによって、リアルな身体が、スタジオから外に出て照明や造形上の慣習から逃れていくものとして提示された」とする(ベック 456)。つまり、1930年代から60年代にあっては(古典的スタジオ・システム下で)飼い慣らされていた俳優(特に女優)の身体は、ヌーヴェル・ヴァーグ映画によって屋外に解放され「野生化」すると彼は指摘したのだが、『ステラ・ダラス』の赤ん坊は、スタジオ・システム下(人工照明下)でもそれが可能であったことを示唆するかもしれない。
注9:ちなみに、カプランと同じラカンを援用するスラヴォイ・ジジェクは『ステラ・ダラス』について、「この映画は、本章の冒頭で言及した『ラプソディー』における男性的な〈欲求拒否〉と真の対称をなしている。主人公である母親はわざとふしだらな女の役を演じ、そのために娘は母を捨て、上流階級に属する婚約者と結婚する。映画の最後のところで、母親は教会の塀ぎわの群集に交じって、娘の結婚式を眺め、顔に至福の表情をたたえて立ち去る。これは、父権的服従の最も低いレベルだと思われたものがその正反対のものになる、微妙な転換点をあらわしている。つまり、最初に頭に浮かぶ解釈は根本的に反フェミニズム的である。すなわち母親は女としての責任を全うし、娘の(父権的・異性愛的)幸福のために究極の犠牲を捧げたのである。ところが、ここで働いている放棄はあまりに根源的で、自己犠牲の極端に達している。母親は放棄の効果そのものを放棄しなければならない。大文字の〈他者〉(大衆)は彼女の行動を高貴な犠牲とは捉えない。つまり彼女は自分の犠牲をその反対物として、忌まわしい堕落として提示しなければならない。そのために彼女は最小限のナルシシズム的な満足をも奪われる。映画の結末場面で母親が身を置いた空無は、したがって、自由の空無に他ならない。彼女は母親としての重荷から解放され、新しい生活の、ゼロからの再出発の可能性が開かれたのである」(ジジェク 256)と述べる。山田の評価と重なるところがあって面白い。

参考文献:カプラン、アン『母性を読む ― メロドラマと大衆文化にみる母親像』水口紀勢子訳(頸草書房、2000年);佐藤歩「再考キング・ヴィダー ― 創造的現在」『映像表現の地平』(中央大学出版部、2010年)、155‐193頁;ジジェク、スラヴォイ『汝の症候を楽しめ ― ハリウッドVSラカン』鈴木晶訳(筑摩書房、2001年);中条省平「映画の中の〈食〉」『中条省平は二度死ぬ!』(清流出版、2004年)、106‐115;ベック、アントワーヌ・ド「スクリーン ― 映画における身体」J‐J・クルティーヌ編『身体の歴史III ― 20世紀 まなざしの変容』岑村傑監訳(藤原書店、2010年)、435‐471頁;山田宏一『映画の夢、夢のスター』(幻戯書房、2011年);Johnston, Claire, « Women’s Cinema as Counter-Cinema » in Feminist Film Theory: A Reader, Thornham, Sue(ed.), Edinburgh, Edinburgh University Press, 1999, pp. 31-40.


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