見出し画像

Sleep Walking Orchestraを自分なりに

先日リリースされたBUMPの新曲、Sleep Walking Orchestra(以下SWO)。
平常時に聴くと、「このフレーズの意味何なんだろうな〜」と思うのだが、辛い時に聴くと自分なりの解釈ができてすごく沁みるので自分なりの考え方を書いておく。


外から窓をくぐった光が〜あれから醒めない夢の中

外から窓をくぐった光が 床に作った最初の友達
空っぽの手をたやすく取られて 連れ出されてから夢の中
幾つかの普通が重なり合うと 時々そこには魔法が宿る
あれはおそらく悪魔だった あれから醒めない夢の中

この言葉たちから私は「生命の誕生」を連想した。
最初の友達。暖かいひだまりの中差し込む光が床に映り、家族でもないけどずっとじっとそばにいた映った光。それが、生まれたばかりで何も知らず何も見えない赤ちゃんにとっての「最初の赤の他人、友達」となる。
空っぽでまだ新しいできたての手を光、最初の友達が取ってからどんどん成長していく。
あの日、自分が生まれた場所。あの公園のブランコ。人がそれぞれバラバラに持つ「本当の自分に戻れる場所」である「原点」からどんどん離れて目まぐるしい社会の中で成長していく。
原点にあったまっさらな気持ちもよくわからなくなりつつざわつく世界の中で今日も働くけれど、やはり自分の原点は自分が生まれた時のあの気持ちあの場所にある気がして、今自分が生きている日常が「夢の中」なのだ、と。「ジャングルジム」と似ているイメージですかね。

起きて寝て食って働いて、特に何もない平凡な「普通」の日常を過ごす。そしてそこには喜びなどの楽しい気持ちだけではなく、妬みや悲しみなど負の感情も生まれてくる。そうやって人は喜び妬みその乖離、こんな自分嫌だと感情の悪魔に悩まされながらもまたざわつく世界の中で平凡な毎日を送る。

籠の中鳥が鳴いて気づいた〜見えない糸を手繰り寄せて

籠の中 鳥が鳴いて気づいた
失くしていた事 もう引き返せない事

そんな平凡な日常を送る中で、籠の中で鳴く小さい命の声を聞きはっとする。
もうあの頃の自分には戻れない。時間は戻せない。今まで自分が歩んできた道のりはもう二度と消えない。もうここまで生きてきたから今更あの頃には引き返せない。

どうして体は生きたがるの 心に何を求めているの
肺が吸い込んだ続きの世界 何度でも吐いた命の証
さあ今 鍵が廻る音 探し物が囁くよ
赤い血が巡る その全てで 見えない糸を手繰り寄せて

もう消えない道のりを歩みながら、あの場所のような「本当の自分が自分でいられる場所、自分の原点」を探す。体が、あの場所の、本当の自分を求めて肺で呼吸をし赤い血を巡らせながら、今日も続きの世界を歩んでいろいろな困難や喜びという人生における鍵を廻しあの場所を探しながら歩んでいく。

夜と朝から外れたままで〜どこまで醒めない夢の中

夜と朝から外れたままで 迫られ続ける取捨選択
何をどれだけ 差し出したとしても 届かないほどの宝物
取り戻したいのか 憧れたのか 篝火の向こう揺れて消える
そろそろ往こうか まだここじゃない どこまで醒めない夢の中

一歩のミスでも怒鳴られ叱られ、物事の取捨選択を迫られ続ける騒がしくて恐ろしくて忙しい社会。
こんな日々を歩む今、幼かった頃のあのまっさらで何でもしてよかった、毎日が楽しかった平和な頃の日常はもう戻らず、今となっては宝物のように羨ましい。取り戻したい。しかしそんな幻想はまたすぐにフッと消え現実に引き返される。
こんな物騒な場所は自分の原点ではない。まだたどり着けていないこの先の未来にある、と今日も夢の中を見えない糸を手繰り寄せ生きていく。

まだ先へ進むというのならば〜見えない糸が解ける場所へ

まだ先へ進むというのならば 夜明けまで吹き抜ける風の唄を

この部分の考察は本当に自分勝手なのだが、
生きる中で、人はいくつも病み立ち止まってしまうことが誰しもにあるはずだ。しかしそこで、私の中ではBUMP、他の人では好きな芸能人かもしれないし親かもしれないし友達かもしれないし近所のおばさんかもしれないけど、同じように生きる誰かが届けてくれるエール、風の唄をくれる。そのエールは、どれだけささやかでもひとりで立ち止まっていた人にとっては、闇が晴れるまで吹き抜けてくれる強い風の唄になるのだ。
皆様にも他人の応援が自信や元気に繋がった経験があるのではないかと思う。受験期、毎日お弁当にひとこと頑張ってね!とメッセージを書いてくれたり、友達が励ましてくれて頑張って告白してみたり、独りで立ち止まって泣いていてつらい時に寄り添って優しい唄を歌ってくれたりしたことがあると思う。
人は、人と助け合い助けられながら生きているのだ。
この風の唄も、そんな誰かが届けてくれた何より強い応援なのだろう。
そしてそれと共に闇を吹き抜けていけるのだ。そしてまた、自分を探して歩き始める。

誰が消えても星は廻る 明日が今を過去にしていく
残酷なまでに完璧な世界 どこかでまた躓いた蟻
未だ響く心臓のドラム それしかないと導くよ
疑いながら その全てで 信じた足が運んでくれる

しかしこの人が山ほどいる世界は、蟻のように人ひとり消えても回り続ける。こんなに綺麗な今も汚い今も明日が、未来が過去にしていく。そんな無機質な世界。
自分よりも優れた人間もたくさんいる。競合させられながらも生きる。しかし、不器用な人、世界から見たら小さな蟻は躓いてしまう。
でもなんとか風の唄に支えられてまた歩き出す、それが世界。
そんな中で心臓のドラムを響かせ生きる、雑念のないピュアなこの体が、本当にこれでいいのか、自分が自分でいられる場所なんてあるのかと迷い疑う複雑な心を、あの頃に戻りたかったんでしょうと導き足が運んでくれる。「なないろ」にも、「手探りで今日を歩く今日の僕が あの日見た虹を探す今日の僕を 疑ってしまうときは 教えるよ あの時の心の色」という描写があるので、「自分は自分を正しく導ける最大の存在」ということなのかもしれない。

どうして体は生きたがるの 心に何を求めてるの
性懲りもなく繋いだ世界 何度でも吐いた命の証
さあ今 鍵が廻る音 探し物が囁くよ
赤い血が巡る その全てで 見えない

なんども諦めそうになったけれど、性懲りもなく大切な探し物を求めなんども命の証を吐いてきた。
見えない糸の結び目が解ける場所。原点。大切な場所。
今日もそうやって、明日もそうやって生きていくのだ。
生きることって、本当は勇気がいる。すごく恐いこと。重なる失敗、戻れない体。
でも、自分を求めて助け合い疑い病み楽しみながら今日も歩みを進めていく。いつか固くなった糸がほどけるその日を楽しみにして生きる今日って最高だ!

ということかなと思っている。生きることへの恐怖と自分を求め歩む楽しみが混在している、それが生きる事。

この唄は個人的には「生きる楽しさや恐ろしさ」、「生きることの楽しさ」、「生きる人への応援歌」、「燃える命の様子を描いた唄」なんじゃないかと思う。
そして、この曲の中で「まわる」という言葉は「回る」ではなく「廻る」という漢字が使われている。

『「廻り」の「廻」は、「回」に「えんにょう」と呼ばれる部首をつけた漢字です。「えんにょう」の意味は「長く伸びた道を行く」というもので、「回」よりも動作の面が強調されているのが特徴です。』

https://mizulabo.co.jp/knowledge/column/mizumawari-kanji

長く伸びた道。それこそ、生きている人の命、その歴史を表しているのではないか、だから「廻る」という字を使ったのではないかなと思った。

最後に、これはあくまで私の解釈であるということ、そしてこの曲は人やその時によって解釈の仕方が変わるグリッターみたいなものだと思っている。ダンジョン飯的要素ゼロの考察になったが、ダンジョン飯的要素を取り入れて考えたらまた変わるんだと思う。BUMPの曲って、そこがいいところの一つだと思ってるのでみなさまもぜひ自分なりの考えを生み出してみたらいかがだろうか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?