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のりかなエッセイ241008:なぜ文章を書くのか?「読書趣味」が恥かしい理由

2024年10月8日、22時39分。
さて、何を書こうか。
昨日から一日1時間、エッセイ形式で記事を投稿し続けることにした。
日々考えたことの備忘録として、のりかな書評のネタ出し用として。
というのが一応の理由付けかな?投稿数を増やすためとか、即興で
推敲なしに文章を書くための練習とか、昨日は書いたような気がする。
何で書くのか?
僕は本を読むのが好きだ。あと漫画も好きだし、アニメや映画を観るのも好きだ。ただ、例えば就活のエントリーシートとかに、趣味:読書と書くのは
なんか恥ずかしい気がする。なんとなく、漫画や本やDVDを観ているというより、作ってる、描いてると言った方が「良い」感じがする。
プロサッカーや野球を観戦している人たちより、草野球であれプレイしている人たちの方が「良い」感じがするのはなぜなのか。
InputよりOutputの方が高尚だとでもいうのだろうか?
…などと書いてみたが、これからこのテーマについて本などで得た知識をひけらかそうという気はない。僕はその分野の専門家でもないし。
僕はこうして文章を書きながら考えているので、「正しい」答えとか「役に立つ」答えにたどり着く保証はない。そういう利益のために本やnoteを読んでいる人たちもいるのだろう。でもそういう人たちは、利益のために本を読むという、好きでもない「苦行」に耐えている人たちだ。
本じゃなくて情報や能力が好きな人たちだと思う。
そういう人たちは、3分でわかるyoutube動画とか、脳に直接情報をインプットできるようなデバイスができれば喜んで利用するはずだ。
僕もそういうデバイスがあれば利用してみたいと思う。

「本を読むのは知識や能力のためじゃない!」という人たちがいる。
とはいえ僕は、読者に何の実りももたらさないような文章を書いて投稿する勇気はないので、なにがしかの結論とかオチは出さないと、と今も思っている。残り20分で結論を出さねば。
いやエッセイなんだし別にいいのでは?という気もするが。本は面白ければいいのだ。
…うーんなるほど、一口に読書家といっても、「知識」が目的の人と、「気持ちよさ」が目的の人がいるのか。いやこの2つはどちらも必要だけど、人によって知識の要求が強い人と、気持ちよさの要求が強い人がいる、ということだろうか?
「このアニメ内容0じゃん、見る価値無し!」という人もいるけど、「説教臭いアニメは嫌い!」という人もいる。難解なアニメや小説をありがたがる人もいる気がする。
なら僕は、読者に「知識」と「気持ちよさ」を提供するために文章を書いているのだろうか?読んでもらう以上、それらは提供「しないといけない」とは思うけど、提供「したい」から書いてるのだろうか。
なんか違う気がする。あと12分。
サッカーや野球を見るのが好きな人は、「知識」要素は皆無だし、「気持ちよさ」100%で見ているのだろうか?いや選手の名前とかチーム戦術とか、知識要素が無いわけじゃないけど。
なんで大谷翔平選手のプレイを見ているのだろう。他人なのに。
他人がホームラン打っても気持ちいいのは本人だけでは?なんで自分のことのように熱狂しているんだあいつらは。大谷選手のプレイを100万時間観続けても、ホームラン技術がインストールされるわけでもないのに。

他人の動きや思考を観ている時、人は脳内でその動きを再現しているという。ミラーリングとかいう現象だったと思う。大谷選手がホームランを打った時、観客も脳内でホームランを打っている。彼がガッツポーズをしているとき、観客も脳内でガッツポーズを再現している。観客は脳内で大谷選手になりきっている。ごっこ遊びをしているのだ。
疑似的にホームランを打ち、疑似的に優勝することで、疑似的に気持ちよくなる。本や漫画も同じだ。疑似的に登場人物の苦悩を味わい、疑似的に勝利を味わう。僕が難解な哲学書を読むのは、疑似的に思考するためであり、ニーチェやハイデガーに「なりきる」ためだ。
1時間たってしまったけど少し延長しよう。今日は蓮舫氏と平家物語の類似点とか、ニュースはポルノだ、という話をするんだと思っていたけど、このテーマで結論を思いついたのでそこまでは書き切ることにしたい。あと今読んでいる、「電力危機」という本の紹介もしたいのでいずれしようと思う。
とりあえず、読書やアニメ漫画観賞、といったInput趣味が気恥ずかしい気がする理由については次のように結論できた。
問い:漫画や小説、論文、哲学書やアニメ、プロスポーツなどを「見る」のが趣味の人たちが、これらを「プレイする」のが趣味の人たちに対して気後れを感じるのはなぜか?
答え:Inputの目的は、「知識(欲)・能力(欲)」と「気持ちよさ(ストレス解消)」の二つがある。「気持ちよさ」は具体的には、プレイヤーに疑似的になりきるごっこ遊びだと分かった。つまり、成果や人々の賞賛を得るために脳や肉体を追い詰める苦痛や苦労、徒労に終わるリスクなどを回避して、結果のみを金銭で得ようとすること。そこに後ろめたさの原因がある。
だとすれば、Input趣味の中でも、より「知識・能力」獲得要素の少ない趣味になるほど後ろめたさが増す理由も説明できる。
…なんかエッセイ感が無くなってきたが、だとすると、僕が文章を書く理由は、疑似プレイでなくリアルプレイをしたいから、といえないだろうか。
ハイデガーやニーチェの哲学書を読むことで、僕は疑似的に考えた気になっているが、それはハイデガーやニーチェになりきっているだけで、実際には彼らの思考を真似しているにすぎない。僕も彼らのようにプレイしてみたいけど、実際にプレイしたらへたくそだから人に笑われる。実際に大谷選手に憧れてバットを振った途端に、彼はへたくそなプレイヤーになる。現実に直面する。それよりは、ずっとお金を払って「なった気」でいた方が幸せだ。
僕がここまで書いた文章は自分で考えたものだから、へたくそな思考だ。
人から笑われるくらいならまだいい。批評家という名のハイエナや、「傷ついた!」という当たり屋に遭遇するリスクもある。でも…。
でも、そんなふうに一生おびえているより、自分でバット振った方が気持ちいいし、自分で考えた方が楽しいと思う。大谷選手みたいにプレイしてみたいし、ニーチェやハイデガーみたいに(何度言うねん!)思考をプレイしてみたい、と思うから、だから僕は文章を書くのだ。なんか良いこと言った感があるけど、これは問題発言だ。だって僕は大谷選手になりたい、ニーチェやハイデガーになりたいと言っているのだから。とんでもない誇大妄想狂だ。
普通の人はこんな恥かしいことは言わない。だから実行はせず、Input趣味という疑似プレイで我慢する。脳内でなりきりプレイをして欲望を消化する。オナニープレイという奴だ。
僕は疑似プレイで我慢できなかったバカだ。
さて、へたくそながら結論めいた何かに到達した気がするので、50分ほど延長してしまったが今日はここまでとする。
本を読む理由には、先に上げた二つの他にももう一つ、「淋しさを紛らすため」という理由がある気がするけど、これについてはいずれまた。
宮崎アニメは登場人物になりきって疑似快楽を得るけど、高幡アニメは監督の思索を疑似体験させようとするのかな?とか、思考は尽きないけど楽しみはここまで。結局2時間たってしまった…。
ではまた♪

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