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のりかなエッセイ241014:なぜテレビを観なくなったのか僕は?その3:ダメ結論の例

2024年10月14日、23時15分。
さて、今日で何回目だろうか。多分6回目くらいだと思う。
まあ3回以上はたくさんだし、正確な数字は意味ないと思うけど。
テレビの話だ。

(このあと2時間、2000文字くらい書いたけどなんかうまくいかないので削除して仕切り直します…)

さて、仕切り直し。2024年10月15日、1時37分。
何でうまくいかなかったんだろう。
お腹が空いていたからか、疲れていたからか。
それとも、もう3回目なのでいい加減、テレビの話にケリをつけようと意気込み過ぎたからか。多分それだ。
土日の間に思いついたことを整理せずに詰め込もうとしてガチガチになってしまった。整流大事。順番が大事。あせらずいこう。
そもそもエッセイなんだし、テレビの話をしなくてもいいのだ。
というわけにもいかないか。とりあえず、ニュースの話をしよう。

ニュースというと、お堅いもの、つまらないもの、というイメージがある。
ニュースは事実しか提示しないからだろうか。つまり、事実はつまらないのだ。事実をもとに虚飾を加えたり、現実にはない虚構を加えて盛り上げたり。「地面師たち」というドラマが人気らしいが、実際の事件にはない、
原作のノンフィクション小説にはない殺人シーンが加わっていると聞く。
その方が、地面師たちの冷酷さが際立って面白いのだろうか。

事実がつまらなくなったのは、日本が平和になったおかげだと思う。
戦後すぐの日本では、猟奇殺人が起きたり、大型台風や地震で町一つ壊滅したり、政治運動で爆弾テロが起きたりと、事実それ自体が過激だったのでニュースは退屈しなかったのだろう。事実を伝えることと、エンタメであることが背反しなかった。両者が矛盾するようになったのは、凶悪犯罪が格段に減少し、富士山レーダーが設置されて台風の予知精度が上がったり、共産党が暴力革命路線を変更したためだ。ニュースの提供する「事実」が薄味化し、満足できなくなった視聴者は、裏番組のバラエティーやスポーツ、歌番組、ドラマといった「虚構」に熱中するようになった。
テレビの使命がお客さんを画面にくぎ付けにすることだとすれば、その能力の多寡、各番組がその使命をどれだけ果たせているかは、視聴率の多寡、で測られる。視聴率が低くても、ニュースは特別扱いされた。
「広告主」と「国」。
テレビを養っているのはこの二人の親だ。片一方の「国」にとって、ニュースは国民を教導するために必要だったし、広告主も景気がいい間は無駄遣いを大目に見てくれた。景気がいい間は。
国民が本やニュースや教養番組を見て賢くなれば、税金もたっぷり入ってくるし、会社も儲かるので広告主もウレシイ。国民や社員がバカになれば国も会社も傾く。なので短期的に見れば、視聴率の低い無駄番組でも投資と考えて大目に見る。逆に、国民や社員がバカになった方がコントロールしやすくて良い、と考える人もいるけど。話が脱線したので元に戻そう。

「楽しくなければテレビじゃないじゃん!」とは誰の言葉だったか。
ナイナイの岡村氏が言っていた気がするが、Wikiによると2004年のフジの27時間テレビのタイトルらしい。さらにWikiによると、80年代のフジテレビのスローガン、「楽しくなければテレビじゃない」が元ネタらしい。
「テレビ」には、ニュース番組も含まれるだろう。こうしてニュース番組は、「楽しくない」ことを許されなくなった。裏番組が過激になっていく中で、衛星放送やネット番組といったライバルも増え、テレビは事実それ自体では薄味なので、過剰なアオリをつけたり複雑な話を単純化して「わかりやすく」「楽しく」するようになった。この手法を、youtuberたちが模倣したのだろう。youtubeのチャンネルは、1個1個がプチテレビ局だ。
「消費者に広告を見せるために、より多くの視聴者を集め、番組にくぎ付けにする」というのはテレビと共通の使命だ。しかも、テレビの場合は広告主と国、という二親だった。視聴者の視線を集めるために脱ぎ始めたり、今から自殺します、なんて番組は国が規制した。放送法で番組を公開停止にしたり、テレビ局自体をバンする権限を国は持っている。youtuberの場合も、閲覧数稼ぎのための過激化を懸念してか、最近ではyoutube事務局?が親としての権限を発動させ、言葉狩りを始めている。ツイッターも同じだ。
国が、番組の内容に口出しすることを左翼は毛嫌いするが、やりすぎたらバンされるかも、という制約の中で、楽しいだけじゃない内容のある番組が作られてきたのだと僕は思っている。楽しさにリミッターのかかっているニュース番組等が生存できたのも、番組に制約があったためではないか?

さて、大変つまらない結論になった。テレビにもネットにも教養と知性と内容が必要で、そのために規制が必要である。エンタメは要するに、苦い風邪薬を子供に飲ませるための甘いシロップのようなもので、シロップだけになってはいけないのだ、という説教臭い話だ。テレビもニュースもネットも、シロップだけになったからつまらなくなったのだ。というのは、僕みたいな知識オタクが言いがちな苦言だ。
こういう結論は多分間違っている。シロップだけになるのは、その方が視聴率、閲覧数が伸びるからで、つまりみんなが楽しめるからだ。少数派である知識オタの意見を採用したら、視聴率が落ちてしまう。「良い」番組を作ることは、テレビとyoutuberの使命に反している。使命を無視して、上質な教養番組を作ろうとするのは、広告主たちのお金をネコババするようなものだ。広告主がそういう番組に金を出し渋るのを非難する権利は私達にはない。私達は「お客様」ですらないのだから。番組制作者に求められるのは、「面白い」番組を作るか、次点で「良く」て且つ「面白い」番組を作るかの2択だ。次点なのは、後者の方がコストとリスクが高いからだ。失敗して、「教養臭い」番組になったら視聴率が下がり、CMの商品が売れなくなる。

僕は以前、本やテレビを観るのには二つの目的がある、と書いた。「知識・能力欲」と、「気持ちよさ」の二つだ。しかしその後で、「淋しさを紛らすため」というのもあるな、と付け加えた。それともう一つ、「世間の話題に合わせるため・ついていくため」というのもあると気付いた。僕が普段、この二つをあまりに意識していないために、気付かなかったのかもしれない。
前者の2つだけで考えると、この二つを対立させて、「テレビがつまらなくなったのは、視聴率のために情報よりエンタメ性を重視しすぎたせいで、ネットも今、その結果を反復している」という結論になってしまう。
「(愚かな大衆から)視聴率・閲覧数を得るために過激化するテレビとネットの競争」を憂える「本好き・知識大好き良識派の私たち」という構図。
こういう自己認識はヤバい。大変マズイ。「劣等民族」発言に近いメンタリティだ。ネットやテレビでこういう発言をしている人は控えた方が良いと思う。「テレビとネットの過激化・ジャンク化を憂う」とかね。エリート主義が見え隠れしちゃってるから。自己批判大事。
というわけで、3回目でいい感じにダメ結論が出たところで、最初全消しした2時間含めて今日は4時間もやってるのでさすがに終わりにしようと思う。
タイトルは「ダメ結論の例」にしよう。ここからどう挽回するか。
ではまた♪




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