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京住日誌 26日目

【What happened today 】
 複雑怪奇でしかも分かりにくく、もしかしたら面白くもない畠山家の家督問題が続く。前回は弥三郎派の襲撃を受け、父畠山持国は隠居し、息子の畠山義就は伊賀国に敗走したところまで書いた。かつて家督の継承者を約束されていた畠山持富の嫡男弥三郎は戦闘に勝利することで畠山家の家督を継承し、足利義政の裁可も受けた。その際義政から、「政」の字を与えられ政久と名乗る。これでついに一件落着と思いきや、そうは問屋が卸さないのが畠山家の家督問題だ。

④1455年(享徳4)
弥三郎→義就

 弥三郎へのの家督継承を認めた足利義政だが、義就には同情的で伊賀国へ下野した義就を密かに支援していたらしい。同時代の日記を残している僧侶や公家たちは義政の優柔不断さを指摘し、批判している。それらを受けて後世の歴史家たちにも義政の評判は悪く、幕政の混乱、ひいては応仁の乱が長期化した首謀者とすることが多い。しかし、足利義政にも言い分はある。そこで、あの世から義政にもご登場願い、思いっきり語ってもらうことにしよう(もちろんファンタジー)

 あのさあ、俺、将軍だよ。一番えらい人だよ!俺がなんか言ったらみんなひれ伏すんじゃないの?
 話はちょっと逸れるけど、水戸黄門って、こっちの世界でも人気あってさー、でも俺はどうしても観る気がしなくて避けてたわけ。ところが貞親が「観ろ観ろ」ってあんまりしつこく言うもんだから(ココアの方ならいつも飲んでるけど)根負けして富子と一緒に観たわけよ。噴飯ものだったね。だってよくわからない小汚い印籠見せただけで、みんな平伏しちゃんだぜ。あれが本当なら、江戸時代は羨ましいなと思ったよ。室町では俺、一度も経験ない。そこで素直な感想を貞親(今更だけど「貞親って誰?」という人のために説明すると、伊勢貞親ね。俺の乳父)に言うとがっかりしちゃってさ。「黄門役は東野英治郎に限ります」って訳のわからないこと言ってたなぁ。「東野英治郎」って誰よ?
 あれ、何の話だっけ?そうそう、みんな俺の言うことを聞かないって話ね。そうなんだよね、だから将軍職って楽じゃないのよ。それでいて願い事は一丁前にするんだよね。でもそんな時はまあまあの明銭を包んで持ってくるから邪険にはできないし、悩みどころだよ。慈照寺作るのにとにかく金がかかりそうで、いつも金欠だから。本音を言えば、最初から会わないって選択肢はないんだけどね(苦笑)。地獄の沙汰も明銭次第ってところだよ。意外に俺も悪だね(苦笑2)。
 そうそう享徳3年(1454)のことだけどさ、畠山持国が顔面蒼白で、やって来たわけ。何かと思ったら、甥っ子の弥三郎が家督を奪還すべく画策しているっていうだよ。それで「俺に何かできることある?」って聞いたんだよ。持国には何かと世話になっているし、家督争いはうちでも困っていて他人事じゃないから。そしたら「弥三郎の討伐命令を出して欲しい」って言うで「そんなんでいいの?」と言いながら出したのよ。チャリンチャリンって音がしたような気がして久ぶりに気分が良かったね。そして懐が暖かくなったら、急に気が大きくなっちゃって、善阿弥を呼んで慈照寺の作庭を命じたんだよ。
 参ったのは、その後だよ。「弥三郎討伐命令」出しているのに、勝元(細川)も宗全(山名)も従わないんだぜ。それだけでなく、あろうことか二人とも弥三郎一派を匿ったていうじゃない。明らかな反政府活動さ。プーチンならとっくにミサイルぶち込んでるところだよ。だから温厚な俺も流石に怒りに震えたけど、弥三郎派が強くてさぁ。まあバックに勝元と宗全がついてんだから強くて当たり前田のクラッカーだけど、義就を京都から追い出しちゃったんだ。「こまったぁ」と思っていたら、勝元の野郎、「殿にお目通りいただきたい人物がおります」と俺の心を見透かしたように抜かしやがって、弥三郎連れて来ちゃうんだよ。初対面だったけど、ちょっと前に討伐命令出した当の本人が目の前にいるんだから、気まずい、気まずい。でも多分勝元の入れ知恵だと思うけど、弥三郎が「お近づきのお印でございます。ご笑納くださいませ」て言いながらドカ〜ンと明銭差し出すんだよ。久しぶりの大量の明銭に、俺訳わからなっちゃって「苦しゅうない、何なりと申してみよ」って、心にもないこと言っちゃったわけ。そしたら、弥三郎って野郎が遠慮ってもんを知らない奴でさぁ「お言葉に甘えて僭越ながら申し上げます。殿が先般お出しになられた拙者に対する討伐命令をお取り消しくださいませ。さらに義就逃亡の現状を鑑み、不肖私弥三郎に畠山家の家督をお認めいただけるよう平にお願い申し上げます」って平伏しながら言うんだよ。内心「持国と義就には義理があるからさぁ、流石に家督の変更まではなぁ」と思いながらふと弥三郎の横に座っている勝元に目をやると俺を睨んでやがんの。それだけなら我慢もできたけど、弥三郎が差し出した明銭を引っ込めようとするんだぜ。俺、思わず、勝元の手の上に自分の手を乗せながら「よきに計らえ」って言っちゃったよ。我ながらびっくりさ。
 でも二人が満面の笑みを浮かべて帰っていくの見送った後、ふと冷静になって考えてみると、やっぱり義就が気の毒になる。だから昼間、弥三郎から献上された明銭の一部を義就に届けさせたわけ。役に立つかは分からないけど、俺の部隊も派兵しておいた。そこまでするとさらにフツフツと怒りが湧いてきて、「俺の討伐命令を無視して、弥三郎を匿うなんてどう考えても反政府活動じゃねえか」ってことで、色々調べさせたわけ。そしたら実際に弥三郎を匿ったのは勝元のところの家臣である磯谷四郎兵衛尉兄弟であることが分かった。そこで早速勝元を呼びつけて嫌味たっぷりに問い詰めたんだよ。そしたら勝元は俺の弱みに付け込んで「それなら管領を辞めます」って言い出した。俺にしてみれば「それを言っちゃあお終いよ」という感じ。だって今は他の管領家、斯波も畠山も家督争いで揉めに揉めてるから、勝元に辞められたらなり手がいないわけ。辛いのは寅さんだけでなくて、将軍様もなの。分かってくれる?
ファンタジー小説「NISHIJINゴーゴーゴ」第3章「将軍様はつらいよ」より

 細川勝元に管領を辞任すると脅かされて(実際、一定期間出仕しなくなった)足利義政は慌てて取りなし辞任を思い止まらせる。それでも全てを水に流すのは将軍家の沽券に関わるので、自らの命令に反して弥三郎を匿った磯谷四郎兵衛尉兄弟の責任は追求した。すると勝元もこれ以上は庇いきれないと思ったのか、それとも将軍家と決定的に対立するわけにはいかずある程度の妥協は必要と思ったのか、結局義政の要求通り、磯谷四郎兵衛尉兄弟を斬罪した。そしてこの行為に激怒したのは、勝元の盟友であり舅でもあった山名宗全だ。「自分の家臣を守れないとは武士の名が廃る」というわけである。怒りの収まらない宗全は兵を率いて足利義政に反旗を翻そうとさえする。一方、宗全のこの動きを察知した足利義政は諸大名を緊急招集して山名宗全の討伐を命令し、宗全に対抗しようとした。この命令は結局細川勝元の取りなしで、撤回されるが、山名宗全は摂津国への蟄居を命じられ、失脚することになる。そして宗全の失脚と同時に義政は義就の上洛を許し、右衛門佐に補人した。義就の上洛は500騎以上を率いての堂々たるもので、義政の意志が色濃く反映されたものだ。一連の行動は足利義政による、細川、山名連合に対する対抗処置でもあった。いずれにせよ、義就は前年弥三郎に家督を追われてからわずか半年弱で、家督に復帰したのである。1455年(享徳4年)2月のことだった。義就の上洛を知った弥三郎一派は再び姿を眩ませなければならなかった。そして畠山家の家督争いはさらに混迷を深めるばかりになったのだった。

⑤1460年(長禄4、寛正元年)
義就→政長

 1455年(享徳4)義政という後ろ盾を得て再び、家督に復帰した義就は家督争いに終止符を打つべく、京都から姿を消した弥三郎派掃討作戦を展開する。義政は幕府の奉公衆(将軍直属の軍事力)を派遣するなどかなり熱心に義就を支援した。ところで当時義就はまだ19歳の若者だ。12歳で元服し、人生経験も豊富な義就だったが、そうは言っても19歳は19歳で、義政の前面支援に調子に乗っていた。何でもかんでも「義政様のご意向なり」と戦線を拡大していき、次第に義政の信頼を失っていく。また幕府内の勢力争いにも変化があり、細川勝元の巻き返しが始まっていた。失脚していた山名宗全が勝元のとりなしで復権したり、義政の乳母で義就派だった今参局(いままいりのつぼね)が誅殺されたりと、義就の立場は悪くなる一方だった。そして細川勝元の裏工作によりついに弥三郎も赦免され上洛を果たした。ただしその直後に弥三郎は亡くなったが、家臣団は弟の弥次郎(後の政長。以下政長と表記)を立て義就に対抗しようとする。それでも義就を見捨てきれず、1460年(長禄4  寛正元年)9月、義政は次のような妥協案を示す。

①義就は隠居し、河内に下国する
②家督を義就の猶子政国に譲る
長禄四年記

 ミソは②で義就の嫡男である義豊ではなく、生物的血縁関係のない猶子の政国に家督を譲るところにある。これなら義就も政長もギリギリ受け入れられると義政は判断したのだろう。ところが義就は京都の畠山家邸宅を追い出され、滞在していた家臣の遊佐氏の屋敷に火をかけて下国した。室町時代、人事に不満のある家臣はしばしば邸宅に火をかけて不満のの意を表した。反政府活動と取られかねないし、実際義政は激怒し、直ちに義就の家督を取り消し、政長の家督継承を認めた。その上、怒りが収まらない義政は同年閏9月、諸大名に義就討伐を命ずる。その後義就治罰の綸旨(朝廷の命令)も発給されて、義就はまさに四面楚歌の状態に陥る。実際、義就はこの後苦難の数年間を送ることになるが、その状況に彼は耐えに耐えた。そしてこの経験は義就を2廻りも3廻りも度量の大きな武将に成長させたのだ。と同時に捲土重来の機会を虎視眈々と伺い、吉野の山奥に潜んでいたのである。畠山家の家督問題はまだまだ終わらない。

【What eaten today】

盛り付けには問題あり

 気分転換はご飯作り。何度も作っているからか、トマトソースは作るたびに美味しくなっていく気がしている。
今日も美味しくいただきました。ご馳走様!

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