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あの人2

わたしは、人生のいろんなことを殆ど覚えていない人間なので、幼少期の記憶は、まず殆どない。ひとつだけ覚えているのは、自分の住んでいた団地(間取りは、もう少し後で書きます)の、階段の下から、すこし彼方の新幹線の高架線路を走る、初代新幹線の姿である。いま、書いていて思い出した。わたしの住居は4階だったから、新幹線の工事を見ていたのも、思い出した。新幹線開通の日のことも、覚えている。なんだ、いっぱい覚えてるじゃないか。自宅から見ていて、東京からのひかり号が行ったな、と思ったら暫くして、そのひかり号が、新大阪駅に着いたのが、テレビに映っていた。今でも、東京方面から新大阪へ向かうのぞみ号などで、新大阪駅到着を告げる車内放送の、あのチャイムが鳴った瞬間、進行方向左側の窓から見える校庭は、わたしの卒業した、大阪市立瑞山中学校である。そこは、大阪市東淀川区である。
ここらあたりは、話の脇道なのであるが、一旦ずれると、止めようがない。
小学校は大阪市立小隅小学校。何と、プールが無かった。プールがないのは、当時でも珍しかった。そして、小学校の前には、農業用と思しき、小川くらいの水路が流れていた。流石にこの水路は、小学1年の時に埋立られて、いまは、道路になっている。
わたしは、通学時間10分位の、大阪市営瑞山東住宅に、父、母、3歳下で4学年下の弟3人で暮らしていた。普通と違って、間取りからはじめよう。四畳半と6畳と台所と便所。これでおしまい。風呂は無し。まぁ、別に遠くはないけど、お風呂屋さんに行きなさい、ということ。あすは、父の生業は何だったかというところから。

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