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鼠講式の評価社会

インフルエンサーとかいう鼠講のアイコン達は毎日何らかを騙っていらっしゃいますね。
などと皮肉を言う私も好きなユーチューバーのチャンネルの更新を楽しみに待っていたりするのですから、この世は永遠のフラクタルの中です。

連続投稿していた呟きがログを見返すのに邪魔なので、まとめ直す事にしました。


デリカシーも配慮も何もない物言いを致しますが、
絵を描く技術が明らかに不足していて(その上誰でも思いつきそうなネタ性で)横の繋がりだけで得ている票を見ると世の中チョロいなと思う事があります
悪い表現ですが、そのチョロさを行使しない自分の強情さにも呆れるものの、そういったチョロさの裏には誰かの犠牲が付き物だから行使するのに抵抗感が拭えないというのが私個人の本音です。
全てのパターンがそうではないとは言っても、割合が低すぎる。
陰で誰かの後ろ指を刺したり(自分の不当な行いを正当化するために)誰かの揚げ足を取ったり、そういった事を全くしないコミュニティというものに出会った事が殆どないために、私は指折り数える程度の友人しか作ってこれなかった。

「なーなーの馴れ合いが生じる時、勝手に犠牲にされている誰かが同時に生じている」
これで傷ついた経験のある知人や自分自身の経験を思うと、関わるのが嫌で嫌で仕方がない。
にも関わらず「社会参加」という生存に必須な事項はこの嫌悪を許してくれないのです。
これがこの世の反吐が出る嫌悪感を煽る仕様なのですよ。
嫌悪感を我慢して社会参加したら単刀直入に表現して性を失礼なやり方で求められたり、散々な事も多く。

ああすみません口が過ぎました。将軍様マンセー、と。

きっと言うべき事ではないし、配慮も何もなく、「絵が下手糞でネタも大した事がない奴が馴れ合いだけで評価されているのは」などと、たいていの世間で評価軸として採用されているそれと違う事を言っている自覚もあります。馴れ合いには、誰かを陰で犠牲にしている土台があったとしてもその内々での信用が発生してしまっている以上、「信用」という目に見えない価値のやり取りに至っている部分もあるのですから。
それでも、そのために誰かが犠牲にされている理不尽な話というものを野放しに了とする事だけは決して出来ません
「誰か一人を悪とし貶す行為で強まる信用」にもしあなたが「幸せを生むだけの力」を見出せるとするのであれば、きっとあなたは幸せな神経を持って生まれたという事なのでしょう。たいていの人間は疑わずに幸せを享受できます。そう出来ない神経を持って生まれた人間が不幸なだけの話です。(疑う能力を必要とされる分野や職業はありますが)
何故努力をしている人間が適切に評価されず、高々くだらない馴れ合いに参加をしていない程度の事で不当な評価にかけられねばならないのでしょうか。何故誰かの理不尽な行いや理不尽な評価を肯定して絆を深めているコミュニティに参加しなければならないのでしょうか。そんな事で得られる評価に底冷えする感覚を1ミリも持たずに信仰するなんて行為は私には難しい。
その不当性や不当である可能性を孕む流れを「素晴らしいコミュニティである」と内々で称え合うあの様を外から見て、「信仰」以外の言葉でどう表現するべきなのでしょうか。
正当性のみを主張し、疑問を持たれて「あたしたちはこれだからこれでいーんです。文句言わないで!!」とミリも受け付けずに跳ね除ける姿勢のどこに外部からの信用が生まれるのでしょうか。
流れの中で生まれている「性格が良い自分達像」との矛盾は一体どう解消するおつもりなのでしょうか。
外部から嫌味を投げかけられる所以に関して、ご自覚はミリ程度あるのではありませんか。だからこそ自らの正義を真っ向からの決めつけや、強い言葉、頭数…などといった、到底大人とは思えない要素を用いて示そうとするのでは。
それとも、思考回路の処理スペック不足を疑って脳に対する糖のリソース供給の効率化を考える方が方向性として間違っていないなどという事は

オタク分野にハマり込んだ理由がそもそも「現実の人間関係の不当さに醜さを見て嫌気が差した事」でありまして、
今度はその分野で活動するとその「現実の人間関係の不当さの醜さ」にぶち当たる機会に数多く見舞われるとかいう、
最悪の矛盾に苛まれてしまう。
全く喜劇でございます。

まあレイトマジョリティが充満しきっちまった分野だからなぁー。ひと昔前のナギ節の時代とはちげぇわな…。


自分のいい加減さが例えば他人に理不尽をもたらしたとして、それを「仕方がない事だったんだよ」と肯定される事ですら時にその肯定してくる相手にすら「味方してくれてるつもりかもしれないけど、あなた今酷い理不尽を肯定したんだよ?ちゃんと事の流れは説明したよね?そりゃある程度の肯定はされて安心したい、でもそこまでガッツリなーなーの全肯定とかいう雑なアレをしてくるのは求めてないしちょっと引くぞ」と一抹の不信感を抱いてしまう神経の私が、幸せであるとは言い難い事もわかっておりまして。
※感謝はしているのですが、「本当に相手を思いやっている人とそうでない自慰的な人の違い」のようなものにやや目が行ってしまう

…知人絵描きの身に起きている事で転職活動中にも関わらず再び激昂している自分に疲れています。
「努力量だけじゃなくて形と結果を見れば云々」とは言います。
しかし、実際努力が形になっているのに無視されている土台の理由があまりにも理不尽で憤怒に駆られているのです。それを「形と結果を見れば云々」…お前目を洗ってこいよ
そういった鼠講式のものから遠ざかって、適正評価軸に近づけるための評価機会の分散システムはどうやったら実現出来るんでしょう。














荒い言葉が出るのでなんとなく配慮のスクロール領域を作ります。











今日もあの手の態様には吐き気がするし反吐が出る。
いい年齢で連れションみたいな事して猿山作って人虐めてんじゃねーよ。
日本国憲法頭に叩き込んでから社会参加しろクズ共

どんな道のりになろうが、実行するのが自分でなかろうが、お前らのそういう不当性が常に精査される自動化システムの配備に漕ぎ着けて理不尽を生む息の根を止めてやるからな
首を洗って待ってろゴミ共



まあ、ですから、不当性というものに関しまして、自分がされた事も、他人がされた事も、そのマイナス分の補填と謝罪・体制/姿勢の改善がなされていないのであれば、私に関しましては○んでも許しませんし、それで駄目ならそういった不当性に怒りを燃やす怨霊の方々の一部となって●後も呪い続けると思います。
「正しい事」というのは時代によって変化するものではありますが、それでも、多人数でたった一人或いは少数派を傷つけたり、不理解と都合の悪いものを押し付けたり、そういったフェアさの欠片も見られないものを見かけた際には、荒御魂の軍団の一部となって祟りの一部に加わる事を決めておりまして。
された側が不当に押しつけられる毎日の生き地獄を生きる気持ちをよく知っているからこそ、見過ごす事は出来ません。
許す方法も与えられず毎日恨むしかない地獄をたった一人で受け止めさせられる心境を、たった少しでも一緒に背負ってやれる存在として社会貢献出来たらいいなという思いです。
他方で多数が許してしまう不当性が存在するのならば、それを許さない者は本来それと同じくらい必要となりましょう。

これが何も誇れないに私であるにせよ、最低限「裁判官の曾孫」としてその血を受け継がせて頂いてしまっている私としての小さなプライドです。
出来うる限り「理不尽の構築」に参加する機会から遠ざかりたいのです。
(そのために、付き合っている相手の元相手への理不尽な対応にすら異を唱えてやや無理をさせてしまった経緯がある程度には)


この鼠講の不当な評価社会をあるべき形に再構築する手段が一刻も早く構築されますように。

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