いらないものにこそ価値がある
先日、名古屋大学駅を降りると、おやっと思うところがあった。何だかやけにスーツの人が多い。就活の時期だからかという気もしたが、若い人だけでなくオジサンも多い。どことなく違和感をもちながらも、特に気にせず1番出口を出た。
出口を出ると、違和感の正体が分かった。出口を出てすぐのところに立てかけてあった看板に、電気学会全国大会と書いてあった。なるほどと思った。
つまりあのスーツの方たちは、もちろん全員ではないにしてもこの学会に出る人たちだったのではなかろうか。雰囲気も何となくそんな感じだった。なるほどね、と思うと同時に、少し寂しい気持ちになった。
ちょうどお昼時だったので、どこかで昼食を食べようと思い立った。どこで食べようかとふらふらしていると、ちょうどNICの建物が目に入った。以前、赤崎記念研究館でアルバイトしていたことがあり、そこの職員さんがこの建物にいたため、文学部の我が身ながらなにかしら縁のある建物だった。 その建物の一階にはちょっとしたカフェがある。そこでピザを食べることにした。
ここも理系の建物だからか、それらしいスーツ姿の人たちがひっきりなしに出入りする。その様子を見ながら、なぜさっきあんなに寂しい気持ちになったのか、少し考えてみた。
おそらく、そこには文学部にはない「権威」があったからではなかろうか。
上手くは言えない。しかし、あのスーツをかっきりと着た姿。仲間内て難しい話をわらわらとする雰囲気。俺たちは偉いんだ、という自負。
はっきりと文学部とは違う、と思った。
文学部では、このような「権威」、悪く言えば「威張り」を感じる機会はあまりない。文学部は、自由である。そもそも、文学部という学部自体、世間からは「必要ないもの」として迫害されているように、特に必要があるからといって研究している人は少ない。だからなのかもしれないが、先生方もなんだか変わった人が多い。群れの中で生活していくというよりも、各々が一人の人間として自立し、軸を据え置いて飄々と生きている人たちが多い。 そこにはどこか「俺たちは社会の片隅に追いやられてるんだから自由に生きようや」というゆったりとした心持ちが根底にあるような気もする。これは決してネガティブな意味ではなく、なんなら自分のアイデンティティにも繋がっているものだ。
いらないものにこそ価値があるのだ。効率や利益を度外視したものにこそ価値があるのだ。究極的に無駄なく生きるということを考えたのなら、産まれた瞬間に死ぬのが正しい。しかし私たちは映画を見ては泣き、人のぬくもりに温かさを感じ、赤ん坊が生まれれば喜び、喧嘩をすれば悲しい気持ちになる。そのような感情の揺れ動きにこそ「生」があり、私たちはそのために生きていると言っても過言ではない。よりよく生きるために、日々努力しているのだ。
私の所属する学部のとある先生は、「本を読みなさい」と言った。駄文も名文も読みなさいと言った。自分は何者でどんな思想を持っているのかということは色んな人の考えに触れないと分からない。それこそ、特定の人の思想だけ見ていても分からないということだ。
タイパという言葉が最近はもてはやされ、何かと効率重視、君たちはどう生きるかと聞けば無駄なくコスパよく……という答えが返ってきそうな社会である。しかし、それでは「本物」を掴むことはできないのではないだろうか。
実際、工学部の先生はトヨタなどと繋がりがあるのに対し、私の専攻の先生は小道具屋やお茶屋など渋い繋がりが多い。それはもちろん分野の違いもかかわってくるのだが、この実用から離れた雰囲気が私は好きだ。理系の方たちの、1+1=2という理論で回る世界を否定するわけではもちろんないけれど、世の中は、1+1=2という簡単な方程式で回るほど簡単じゃない。1+1が2にも100にも0にもなりえる。
文学部の自由な雰囲気が漂っている。それこそ、なんにもない片田舎の田んぼの真ん中にいるような気分。
そんなことを考えた午後のひと時だった。
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