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日々の思索

私は、なんにでもなりたかった。
中高の友達に、何でもできる奴がいた。ピアノも弾けるし、クラリネットも吹けるし、ギターもベースもできるし、タイピングも速くて、頭もよくて、活発で明るくて、部活でもリーダーに選ばれてたし、絵も上手くて、運動もできて、歌も上手くて、ゲームなんかも作ってて、クラスの人からは「出来ない事あるの?」って言われてた。私の友達。私は、常に劣等感が消えなかった。
その子に憧れて歌の練習をしてみたり、合唱コンクールでピアノの伴奏に立候補してみたり、文化祭のバンドに参加してみたり、部活でもコンクールに出たり、絵もちょっと頑張ったり、勉強も頑張って、本当は運動だって苦手だけどマラソン大会で頑張って、とにかく色々やってみた。でも、結局だめだった。今言った中で、私はどの分野でもその子に勝てなかった。唯一、勉強くらいは勝てたかもしれないけど、でもなぜだかあまり喜べなかった。頑張った分、悲しさが募った。
中学の時は、とにかくこの「他人と比較してしまう癖」を直したいと思って奮闘していたけれど、結局直すことができなかった。見ないようにしようと思っても、同じクラスだったりするとどうしても気になってしまうし、むしろ逆効果だ。

でも、結局その子の何が良かったかって、もちろんなんでもできるところはそうなんだけど、それによって皆から認められたり、褒められたりしてたところなのかもしれないという気がする。でも、私も、勉強分野ではよく褒められたがあんまりうれしくなかった。どうしてかは分からない。さっきも同じ事言った。堂々巡りだ。
つまるところ、私は勉強を楽しめてなかったんだろう。楽しめない事で褒められても嬉しくない。自分がやりたくない事で褒められても結局意味のないことだ。足の爪の長さを褒められたって、あんまり嬉しくないだろう。大抵の人は、と同じ感覚。なぜ嬉しくないかって、足の爪の長さなんて、普通はさほど関心を払っていないからである。

つまり、自分がやりたいと思っていたり、心の底から楽しんでいる事柄で褒められると人は喜ぶのかもしれない。そう思った。

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