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「水星の魔女」をどう考えるか

最終回まで見終わったので、「水星の魔女」を総括してどう思ったかまとめていきます!
いやぁ、言語化するのが、すごく大変だった…
余白が多いわりに情報量が過多なので、解釈する材料が多すぎて処理速度がおいつかないです;
とはいえ個人的にはこの作品「刺さった」んですよね。で、悲喜こもごもが飛び交うこの作品だから、「刺さった」と思ったからには何故ささったのか言葉を尽くさないと自分で自分が許せなくなりそうで書きなぐりました。長文駄文で読みづらいかもしれませんがお付き合い頂ければ幸いです…!

まず、所感を一言でまとめていくと

・見方、解釈の仕方によっていくらでも変貌する作品

・社会構造的な救いを求めるか、登場人物個々人が自身の中での考え方で救いを見いだした所に視聴者が救いを求めるかであの物語に対する地獄を感じる温度感が断然違いそう

私は「登場人物が個々人の中での考え方で救いを見いだした所に救いを求めた」側の人間寄りなのでこの物語が割と最後まで刺さりました。

元々下地として、下記の作品の内容が自分にとって心に残っていたから今回も響いたというのも大きそうです
※スパイラル~推理の絆~をこれから読む予定でネタバレNGの方は回避を

スパイラル~推理の絆~という作品で、主人公の鳴海歩は天才兄貴に何かあったときの全臓器四肢ドナー用クローン人間として生み出されます。クローンとして作られたため才能も好きな人もすべて兄と重なってしまい、その上兄という先駆者がいるためどれもこれも二番煎じと認識され己を真には認めて貰えませんでした。そんな彼を、兄清隆は己が天才であるが故の孤独感に終止符を打つために自分を殺してくれるよう仕向けます。具体的には、こっそり自分の息が掛かったヒロインを送り込み、歩自身に数々の刺客と戦わせヒロインに支えて貰うようにし、歩と全く同じ境遇の人間と仲良くさせた後に袂を分かたせ、挙げ句「今までお前の側にいたヒロインは俺の息がかかったスパイでした」と暴露し絶望に落とそうとします。

でも歩は、絶望に墜ち兄を殺めませんでした。兄を殺せばほんの一時でもオリジナルに搾取されない余生を送ることを選びませんでした。彼自身の置かれた環境は非常に過酷です。二十歳まで生きられない身体(この時彼は16歳)、残り4年の間も身体機能は衰え目も見えなくなる始末。大好きなピアノを弾くことも楽譜を書くこともままならなくなります。好きな人は兄と結婚したままです。ヒロインとは一緒にいられなくなりました。自分が救いたかった人達は殺処分も厭われない厳しい監視下に置かれたままです。それでも歩は兄清隆を生かすことを決めました。

”誰から見ても不幸で 推測される未来すらも無惨な奴が 実際に笑っていった言葉”こそが、神のような兄を越えられる唯一のものだと考えたから

でした。そしてその言葉こそが「自分は自分で救えるかもしれない」で、歩自身や彼の助けたかった人達にそう思わせられるんじゃないかと考えたといえます。

この作品も水星の魔女と同様、登場人物達の置かれた社会的環境の明確な救済措置はありません。歩の助けたかった人達は変わらず呪いに蝕まれながら生きていきます。理由はどうあれこの人達(子供達)を殺処分してきた人達の処遇も問われません。でも子供達は歩の生き様をみて、「自分で自分を救いたい」と感じ、死んだ眼を捨てて呪いに負けるその瞬間まで抗って生きようとし始めます。

社会は変わらない、自分の為の世界じゃない、そこに救いは無いかもしれない。自分の為の誰かはいないかもしれなくて、でも誰かの為の自分じゃないからこそ、自分で自分を救うことだってできるかもしれないんだ。

多分、この文脈が心に刺さるか刺さらないかで、ひとつ、水星の魔女の見方や解釈が分かれる気がします。

みんな”自分が思う<誰かの為に動いている>”だけであって”その誰かが思っている<誰か自身の為になる動き>はできない”。その中で、相手からきたアクションや返ってきた回答に、自分がどう折り合いをつけるか。ここが、水星の魔女にひそんでいるテーマの形をした「問い」なのかなと。多分「問い」が作品が大事にしたことなのかなと思いました。作中で「回答」は出してたかもしれませんが「解答」は出してないと感じたので。

個人的に、エラン4号君がこの解釈の仕方を体現してくれていたと感じたんですよね。「君との決闘のこと、後悔してないよ。」で強く思いました。

4号くんは下層市民の出で、あの世界のあらゆる不平等・貧困・悪意を目の当たりにしていて、その上に成り立っている学園のあらゆる出来事を見ても、下で起こっている悲惨さに眼がいくので、もういっそ全ての物語に対し「このうえない無関心」を自身の心に確立しようと努めていました。序盤の彼はこの世は不幸しかないと考えていたといえそうです。

スレッタと出会い、「自分と同じ境遇かもしれない、分かり合えるかもしれない」と希望を抱き、彼女に近づき労り、そして彼女が違うことに気づき裏切られたと感じます。反動で激昂しその全てをぶつけて彼女を否定しようとしました。ここまで、4号くんを取り巻く環境は何一つ改善されていません。相変わらず強化人士でモルモットである事実は覆せないし、スレッタは自分が思うような存在ではなかった。しかも、ぶつかった末に自分の身体は今や限界を迎えようとしています。

でも彼は、「僕には何もないと思っていた。けれど、そうじゃなかった…そうじゃなかったんだ」と唱えます。全力でぶつかって、思いの丈を叫んだ末に、そう考えるに至りました。決闘の最後に、幼いエリクトの姿をみて、幼児だったろう己の記憶を呼び覚まし、「かつて、見返りを求めるものでも同情でも何でもなく、自分を祝福してくれた誰かがいた」ことに気づきます。また、現在でもスレッタという己を祝ってくれる存在を見つけます(祝うことが肉体的に叶わないと予期していても)

また彼は読んでいた『意志と表象としての世界』では、この世の悲惨さから目をそらせず禁欲に生きた人間が死を迎えるとき、ようやく否定し続けてきたこの世界のすべての物事から解放されると喜びを感じるだろうとありました。同時に、人生はところどころに涼しい場所のある基本灼熱した環状道路だという記載もあり、4号は否定し続けてきたこの世界から解放されるうれしさと、一時のものだとしても最後の時間にタイミング良く幸せを得ることができて「わるくなかったな」と思い笑みながら赤い光を見つめていたんだろうと思えました。

彼は6話までで自分で自分を救えていたとも見えたんですよね。その上で、最後の最後に逢瀬を果たして、「苦しいならきっと 闇を切り裂いてきみを迎えに」いって、困っているなら助けようと、約束を守れなかったことを謝ろうと、罪の意識を感じている彼女に「君との決闘のことは後悔していない」と伝えたんだと思います。

状況が無惨なのには変わりないんですけど、彼は失意に墜ちて肉体的に死んだのではなく、確かに救いや幸福を見いだしていたんだと。

この辺の方式というか流れというか(方式というには言葉足らずだったと感じる心は否めない)が個人的に登場人物達に落とし込まれていたと感じたので、私はこの作品に愛着が湧いたんだなと思いました。(どう落とし込まれていたか言語化するのが自分の力量的に時間がかかる…のでこのあと、シャディクの分を追加投稿します)

そもそも

肉体的死をネガティブに捉えるか否か

は、「リメンバーミー」の世界観がかかわってくる気がします(いろんな作品を引用してすみません)彼岸にいるヘクター達は本当に哀しい存在なんでしょうか。肉体的には死んでいても、彼岸の彼方で、データストームのその先で、笑っていたら。思うままにふるまえていたとしたら。それは無惨な有り様なんでしょうか。尺は確かに限られていましたが、最終話のあの瞬間、ソフィもノレアも笑っていました。ソフィは求めていたお姉ちゃん(エリクト)の側に行けたこと、ノレアも来てくれたことは嬉しかったのではないでしょうか。ノレアは5号に想われた嬉しさを抱きしめつつ、大好きなソフィの側に行けたことが嬉しかったんじゃないでしょうか。リメンバーミーで、「本当の死は忘れられることだ」と台詞があります。「忘れない限り、彼岸にいても、つながれるのではないか?」という投げかけもまた本作中ではなされていたんではないかと思えました。

(これだけ管を巻いていますが、それでもアーシアン側・狭間側のガンダムパイロットズの処遇が貧困と格差に苛まれ続けその肉体すら喪うことになった世界の構造は非情で残酷でグロテスクで夢がないのは何処も否定できません。その通りだと思います…ニチ5に見せていい世界じゃねぇ!というかこれを見てる子供達は理解できるのか?という疑問もつきない。成人の視聴者達すら意見がむちゃくちゃ分かれてるのに)

オーコウチさん、前作「甲鉄城のカバネリ」でも主人公に「やっぱり俺たちは弱いよ。でも、だからってあがいちゃダメなことにはならないだろ」と言わせてて、”現状の己の無力さ世界の非情さを受け入れた上で己の有り様を肯定しようとする態度””自分のことは解釈次第で自分で救えるかもしれない”ことを立場として割と取ってそうなんですよね。

この辺が共感できるところがあったから、水星の魔女も、思うところはあったけれど肯定感をもって味わえたのかもと考えました。

駄文、お付き合い頂きありがとうございます…!

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