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彦坐王の血統⑩室毘古王

 「彦坐王(日子坐王:ひこいます王)」の一族について伝承を調べています。この「彦坐王」は 開化天皇(9代)の皇子ですね。
 「彦坐王」は畿内北部の「神社」にいくつも伝承を残しています。

 これまでの記事でいくつかの伝承を紹介してきましたが、ここでは「彦坐王(日子坐王)」の子達から、「沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)」との間に生まれた「室毘古王(むろびこのみこ)」について掘り下げていきます。

彦坐王(日子坐王)と「沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ) 」の間に生まれた子達:

狭穂彦・沙本毘古王(さほびこのみこ) 
狭穂姫・沙本毘売命(さほびめのみこと) 
袁邪本王(おざほのみこ)
室毘古王(むろびこのみこ)

福井県若狭のあたりある2つの神社 (左上が日本海、右下は琵琶湖)

<彌美神社> 福井県 美浜町宮代

 ※この神社は HPも開設されていますのでそちらも参考にしてください。

祭神:室毘古王 「若狭耳別の祖」

二十八所大明神
 「伊勢大神宮、北野天満、春日、丹生、平野、松尾、賀茂、稲荷、大原野、石上、大和、龍田、広瀬、住吉、梅宮、吉田、広田、祇園、気比、熊野、金峯、白山、熱田、岩清水八幡、十禅師、上下宮、日吉、三輪大明神」の28所の神社の神様

(合祀)
建御雷神、天兒屋根命、布都主神、比咩大神、大山祇命、天照皇大神、豊受大神、応神天皇、倉稲魂命、大山積命、菅原道真公

この神社は珍しく、室内タイプの拝殿に入って拝むことができました

御由緒:
崇神天皇は王化に従わない人民教導(討伐でもある)の為、多くの皇族を国中に遣わし、御治めになったときに、室毘古王が三方郡を治め、現在の美浜町(旧)耳村に駐まられ、多くの臣下を郡内各地に遣わした。それ以来、人心豊かになり、この地が豊かに栄えることができた。
 この御恩を忘れぬため大宝2年(702)に神山体として信仰されていた御嶽山の麓に社殿を造営し、広く崇敬した。

本殿の脇に摂社もある
二十八所社と天満社
ニニギの伝承もあるようでした。


<闇見神社> 福井県 若狭町成願寺

御祭神:
沙本大闇見戸賣命(第九代開化天皇の皇子の日子坐王の妃

菅原道眞公(若狭天神)、建御名方大神、八坂刀賣神、國懸神、日前神、火軻遇突智神、別雷神、玉依姫、大山咋神、加茂健角身命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、應神天皇、神功皇后、天照大神

 ※いくつもの神社が合祀されて、多くの祭神が祀られています。

御由緒:
 『闇見神社発端之事』に「嶺の中腹の大池に大蛇が住んでいて萬民に災を与えていた。第11代垂仁天皇の御宇、甲午の年に素盞嗚尊・奇稲田神の化身の2老人が大蛇を退治された時、大蛇が2つになって飛び上り、1つは美濃国に、1つは若狭の山辺に落ちて闇見の神になった」と記している。


<ちょっと考察です>

・「彦坐王(日子坐王)の妃の一人」が何故、大和国から離れた日本海側で 祀られているのでしょうか?
 やはり、息子である「狭穂彦」が「垂仁天皇(11代)」と対立し武力衝突を起こしたことから、戦乱を避け、「室毘古王」と共に若狭の地に落ち延びたということでしょうか。

 「若狭」の周辺は、「室毘古王」の父である彦坐王(日子坐王)」が陸耳御笠の討伐に遠征していたことから、地盤が築けていたのかもしれません。

・伝承にある「垂仁天皇(11代)」の代にある甲午の年が西暦何年か?
 3世紀ごろの甲午の年は「214年・274年・334年」であり、乱暴ながら消去法で考えると「西暦274年」と推察します。

・伝承で、もう1つ気になる箇所は『大蛇が2つになって「1つはこの闇見の神」になり、「もう1つは美濃に落ちた」』という内容。
 「1つはこの闇見の神」は、「彦坐王(日子坐王)の妃の一人」である「大闇見戸賣命」とすると、「美濃に落ちた」は何を指すのでしょうか?

 2つに割れて他方の1つが「美濃に落ちた」というのは配偶者である「彦坐王(日子坐王)」を指しているのでしょうか?

 つまり、「分かれ離れ」になった「彦坐王(日子坐王)」が「美濃」に埋葬されているとも受け取れます。


 

 次の記事では、彦坐王(日子坐王)に関連した「美濃」での伝承を掘り下げたいと思います。

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