Yama JINJIN

神社や遺跡、神話(日本書紀・古事記)を頼りに、弥生時代の出来事や日本建国について、あれこれ想像しています。 関西を中心に 散策しています。

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最近の記事

宇佐伝承における神武東征②

前回の記事に引き続き 【宇佐家伝承古伝が語る古代史 (著)宇佐 公康 】(1987年発行) という書籍について紹介します。 <継承したのは、兄の景行天皇>宇佐家の古伝によると ●「神武天皇」(初代)が多祁理宮で亡くなった後、兄の「景行天皇(12代)」が継承して九州を親征した。 とある。 <ちょっと考察します>  何故だかわかりませんが、 初代天皇である「神武天皇」の兄が、12代天皇の「景行天皇」となっていて、跡を継いだこととなっています。  宇佐家口伝では、 「神

    • 宇佐伝承における神武東征①

      【宇佐家伝承 古伝が語る古代史 (著)宇佐 公康 】(1987年発行) という書籍をご存知でしょうか?   宇佐家とは、大分県にある「宇佐八幡宮」の社家として繁栄した一族です。  現在では、この書籍の新品は販売がされておらず、AMAZONなどで検索しても、中古書籍がプレミア価格で販売されています。  そのため読むことを諦めていましたが、街の図書館に置かれていることがあり、幸いにも読むことができました。 <書籍:宇佐家伝承古伝が語る古代史>  著者である「宇佐公康」は、

      • 『孝元天皇が物部氏と連携』⑨まとめ

        <これまでの記事の振り返り>【3世紀中頃】に「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。この「纒向遺跡」の成立が『実質的な日本の建国』と考えており、この仮説をベースにいろいろと調べてきました。 <記紀での孝元天皇(8代)>以前の記事でも紹介しましたが、孝元天皇(8代)はこれまでの天皇と傾向が変わり、「物部一族」から后妃を娶るようになります。 <出雲口伝での解釈>以前の記事でも紹介しまし

        • 『孝元天皇が物部氏と連携』⑧近江の天孫降臨

          【大綜麻杵と伊香色雄の親子】より前の世代について、所縁のある神社や伝承を調べています。 <多くの嫁を輩出する一族について>以前の記事で、古代の物部一族と婚姻関係が密にあった一族を紹介しました。  ここでは、これらの関係者を祀る神社を引き続き調べていきます。 <天之御影を祀る神社>【御上神社】 所在地:滋賀県 野洲市 御祭神:天之御影命・天照大神の御孫 御由緒:当社の起源は、第七第孝霊天皇の六年六月十八日に御祭神天之御影神が三上山に御降臨遊ばされ、それから約千年の間、御

          『孝元天皇が物部氏と連携』⑦近江にて

           【大綜麻杵と伊香色雄の親子】より前の世代について、所縁のある神社や伝承を調べています。 <多くの嫁を輩出する一族について>前回の記事で、婚姻関係が密にあった一族を紹介しました。  ここでは、これらの関係者を祀る神社を見ていきたいと思います。 <新河小楯姫命を祀る神社について>【下新川神社 (しもにうかわじんじゃ)】 所在地:滋賀県 守山市幸津川町 御祭神:豊城入彦命 小楯姫命 御由緒:元正天皇霊亀二年開拓の祖神、野洲川の司水神として崇敬されたと伝える。小楯姫命ととも

          『孝元天皇が物部氏と連携』⑦近江にて

          『孝元天皇が物部氏と連携』⑥近江にて

          ここからは、【大綜麻杵と伊香色雄の親子】より前の世代について、所縁のある神社や伝承について見ていきたいと思います。 <物部氏の系図> 物部氏の系図はいくつかあり、【伊福部氏 系図】などが有名だが、ここでは【諸系譜 第1冊】にある【物部大連 十市部首】をベースに記載する。  ※なお、「諸系譜」は国立国会図書館などで無料で閲覧が可能です。 <多くの嫁を輩出する一族について>大綜麻杵と伊香色雄の親子より前の世代について足跡を探索すると、諸説あり選択を悩むのですが、ここでは この

          『孝元天皇が物部氏と連携』⑥近江にて

          『孝元天皇が物部氏と連携』⑤大綜麻杵と忌部

          以前の「五所神社(瑜伽神社)」の記事で、物部氏の祖である大綜麻杵を追っていたら「忌部氏の祖」である「天太玉」の名が登場してきました。こちらの伏線回収ができていませんでしたの少し考察していきたいと思います。 <大綜麻杵(おおへそき)について>『日本書紀』によれば、大綜麻杵は崇神天皇紀に崇神天皇の母・伊香色謎命の父として記載されているが、他に特記すべき情報はない。  大綜麻杵の妻の名は「高屋阿波良姫」と伝承されている。 <五所神社(瑜伽神社)>物部の祖とされる【大綜麻杵(おお

          『孝元天皇が物部氏と連携』⑤大綜麻杵と忌部

          『孝元天皇が物部氏と連携』④大綜麻杵(補足2)阿波での孝霊天皇の皇子たち

           前回の記事では、「北九州の勢力が畿内へ東征してきた2-3世紀以前より 阿波(徳島)にいた勢力は「出雲ー大和連合」と同じ「銅鐸文化」を有していた勢力である。」という内容を紹介しました。  そして北九州からの勢力が大綜麻杵の親子でないかと前回までの記事で考察しました。  ここでは、阿波にいた既存の勢力はどのような勢力であったかを考えてみたいと思います。 <7代孝霊天皇の皇子とゆかりのある神社> 出雲口伝関連の書籍をベースに考察すると「7代孝霊天皇や8代孝元天皇」にゆかりの

          『孝元天皇が物部氏と連携』④大綜麻杵(補足2)阿波での孝霊天皇の皇子たち

          『孝元天皇が物部氏と連携』③大綜麻杵(補足1)阿波の銅鐸埋葬

           前回の記事で、「物部氏の祖」である「大綜麻杵(おおへそき)」と「伊香色雄」の親子の痕跡が、阿波(徳島)にあったという内容を紹介しました。この記事では、「考古学的な視点」で2世紀末ごろの阿波について見ていきたいと思います。    <阿波で出土した銅鐸について> 実は阿波(徳島)は銅鐸の多い地域で、全国で発見されている銅鐸の約1割、50個近くが発見されています。そして、銅鐸は、以前の記事でも紹介したのですが、「阿波だけでなく、出雲・大和を含むエリア」で、出土しており、出雲ー大

          『孝元天皇が物部氏と連携』③大綜麻杵(補足1)阿波の銅鐸埋葬

          『孝元天皇が物部氏と連携』②大綜麻杵

          ここでは、【伊香色雄】より前の世代の物部氏に祖先に着目して、所縁のある神社や伝承について見ていきます。 <大綜麻杵(おおへそき)について>『日本書紀』によれば、大綜麻杵は崇神天皇紀に崇神天皇の母・伊香色謎命の父として記載されているが、他に特記すべき情報はない。 なお、大綜麻杵の妻の名は「高屋阿波良姫」と伝承されている。 名前に、「阿波」がつくことから、現在の「徳島県」あたりに所縁があるのでしょうか? ここで、徳島県で気になる神社を紹介したいと思います。 <五所神社(

          『孝元天皇が物部氏と連携』②大綜麻杵

          『孝元天皇が物部氏と連携』①

          <これまでの記事の振り返り>【3世紀中頃】に「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。この「纒向遺跡」の成立が『実質的な日本の建国』と考えており、この仮説をベースにいろいろと調べてきました。  これらを理解するために、ここまで次のようなことを調べてきました。 (1)孝霊天皇(7代)の皇子「吉備津彦命」 (2)開化天皇(9代)の皇子で「彦座王命」とその息子「丹波道主命」  (補足)四道

          『孝元天皇が物部氏と連携』①

          出雲口伝における物部伝承⑬九州勢の東征2回目-4/4

          「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介しています。 ※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。 <磯城王朝の終わり> 丹波国では、大和の最後の勢力である「道主大王」の軍勢には、物部勢力から寝返った「武内宿祢」の勢力が合流していた。  そして彼らは抵抗を続けたが、最終的には豊国と物部の軍に取り囲まれた。  勝ち目が無いと悟った「道主大王」は、物部イクメ王に降伏した。ここに磯城王朝は終

          出雲口伝における物部伝承⑬九州勢の東征2回目-4/4

          出雲口伝における物部伝承⑫九州勢の東征2回目-3/4

          「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介しています。 ※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。 <タジマモリの裏切り> イクメ王の協力者だった「タジマモリ(田道間守・但馬守)」は、イクメ王を襲撃し自分がヤマトの王になろうと陰謀を企んだ。   困ったイクメ王は、出雲を攻略した「物部十千根(秋上十千根)」に、タジマモリを追討するするように頼んだ。そこで「物部十千根」は旧・出雲王家の富家に

          出雲口伝における物部伝承⑫九州勢の東征2回目-3/4

          出雲口伝における物部伝承⑪九州勢の東征2回目-2/4

          「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介しています。 ※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。 <その頃のヤマトの情勢> ヤマトでは、オオヒビ大王(大日日・開化天皇:9代)が治めた後、その王子である「ヒコイマス王」(彦坐王・日子坐王)が大王になっていた。  ヒコイマスの拠点は、大和盆地の東北にある「和邇の地」にあった。  第2次物部東征が始まる前に、ヒコイマスはなくなった。その王子の

          出雲口伝における物部伝承⑪九州勢の東征2回目-2/4

          出雲口伝における物部伝承⑩九州勢の東征2回目-1/4

          「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を掻い摘んで紹介しています。 ※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。  詳しくは、この書籍を御覧ください。 <2回目の東征の動機>『三国志』「呉書」呉主伝には、黄竜2年(西暦230年)の出来事として次のように記されている。 (呉王・孫権は)将軍の衛温と諸葛直とを派遣し、武装兵1万を率いて海を渡り、夷洲(沖縄)と亶洲(九州)とを探させた。  しかし、この洲は遥かな遠方にあって、衛温たちは結局、

          出雲口伝における物部伝承⑩九州勢の東征2回目-1/4

          出雲口伝における物部伝承⑨大彦VS物部(補足)近江の銅鐸埋葬

           前回の記事で、出雲口伝に関連する書籍より、「第一次物部東征」において「物部勢力」に圧され「大彦軍」が北に退却した内容を紹介しました。  この記事では、「考古学的な視点」で2世紀末ごろの近江について見ていきたいと思います。 <野洲川付近の主な弥生遺跡>【服部遺跡】 弥生時代前期の広大な水田跡がある。 野洲川が形成した三角州に営まれた集落。 【下之郷遺跡】 弥生時代中期の大環壕集落。 【伊勢遺跡】 弥生時代後期の1世紀末にできた集落 2世紀末(倭国大乱の頃)に突然、放棄さ

          出雲口伝における物部伝承⑨大彦VS物部(補足)近江の銅鐸埋葬