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『孝元天皇が物部氏と連携』⑨まとめ

<これまでの記事の振り返り>

【3世紀中頃】「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。この「纒向遺跡」の成立が『実質的な日本の建国』と考えており、この仮説をベースにいろいろと調べてきました。

<記紀での孝元天皇(8代)>

以前の記事でも紹介しましたが、孝元天皇(8代)はこれまでの天皇と傾向が変わり、「物部一族」から后妃を娶るようになります。

8代天皇・孝元天皇の系図
※「記紀」にも誤記や捏造・改変がある可能性は十分にありますが、ここでは、記紀の内容をそのまま記載します。

<出雲口伝での解釈>

以前の記事でも紹介しましたが、出雲口伝の関連書籍によると【「物部氏」は九州から来た勢力で、第一次東征においては、まだまだ力が弱く、既存勢力の「孝元天皇(8代)」と婚姻関係を結ぶことで畿内への足がかりを作ろうとした。】ということが書かれていました。

出雲口伝の関連書籍による系図
※「記紀などに書かれてる系図」と少し異なります。

 これまで紹介した出雲口伝の関連書籍によれば「大綜麻杵(おおへそき)」や「伊香色雄(いかがしこお)」の世代に物部一族は九州からやって来たことになる。

 そうなると、それより前の世代となる「大矢口根大臣」「出石心大臣」、「出雲醜大臣」、「彦湯支命」などは、九州で暮らしていたのでしょうか? 

 それを深堀りするためにいろいろを調べてきました。

<ここまでの情報をまとめると>

ここまでの情報をまとめると、「大綜麻杵(おおへそき)」より前の世代である「大禰命」「出石心大臣」などの足跡は、近江の野洲川流域にあることがわかりました。

<ちょっと考察です>

これまでの情報から 年代を予想すると、以下のような図になります。
あくまで、個人的な見解であり、今後の情報追加で変わっていく可能性は十分にあります。

これまでの情報から予想した年代図
(あくまで個人的な見解です)


 ※孝霊天皇(7代)の御代
に、「天之御影命」の天孫降臨という伝承が御上神社に残ることから、何らかの勢力が この野洲川流域にやってきたことが伺えます。

出雲口伝の関連書籍によれば「大綜麻杵(おおへそき)」や「伊香色雄(いかがしこお)」の世代に物部一族は九州からやって来たことになるのですが、それより前の世代となる「大禰」や「出石心大臣」の妻が、滋賀県に伝承が残っていました。

 このようなことから、考えられる可能性はいくつか浮かびますので、ここでは2つ挙げたいと思います。。

【仮説①】
「大禰」や「出石心大臣」などの物部の祖は、滋賀に居た。
 「出雲口伝」関連書籍は、辻褄が合わなくなるため、出雲口伝は《史実ではなかった》と考える。

【仮説②】
 「大禰」や「出石心大臣」は、その当時、滋賀に居た。そして「出雲口伝」関連書籍のとおり、孝霊天皇(7代)や孝元天皇(8代)の頃に、北九州から物部の祖はやってきた。

しかし、これらの伝承は、「神武天皇(初代)」の東征として、記紀において、使用されてしまった。
 また、本来の東征の時期も、より古い時期にずらされることとなった。

この辻褄を合わせるために、「物部の祖」の系図は、近江に居た一族の系図などでツギハギがなされ、改変された。


 これらを考察するには、まだまだ情報が足りないように感じています。

 もう少し周辺情報を集め、傍証を増やしてから、これらの考察を再トライしていきたいと思います。


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