見出し画像

古代天皇の系図を読み解く④8代 孝元天皇 (物部氏との繋がりが深くなる)

【3世紀中頃】に「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。この「纒向遺跡」の成立が『実質的な日本の建国』と考えます。ここでの最大の疑問は、「卑弥呼」と「古代天皇」の関係です。

 そのため、ここでは8代・孝元天皇に関する記紀の記載について確認します。

【8代天皇:孝元天皇】

「古事記」や「日本書紀」の記載を根拠に8代天皇の系図を示します。

8代天皇・孝元天皇の系図
※「記紀」にも誤記や捏造・改変がある可能性は十分にありますが、ここでは、記紀の内容をそのまま記載します。

 8代の孝元天皇の系図を見て、ビックリしました。なんと、これまでの初代から7代までの天皇と全く傾向が異なる系図になっています!

 7代天皇までの天皇の系図では、「鴨一族」(あるいは磯城県主)や血統的に近い「尾張一族」から妃を娶り、その子が跡継ぎになっていました。 

 孝元天皇の系図では突然、「物部一族」から妃を娶り、その子が跡継ぎになっています。しかも「物部一族」から複数の妃を娶り、がっつりと関係を結んでいます。

 そこには、過去の記事で何度も出てきた「伊香色雄命」の名が出てきています。「伊香色雄命」「物部一族」で、遠祖である「饒速日」を祀る神社をいくつも創建した人物です。「石切劔箭神社(大阪府東大阪市)」や「新屋坐天照御魂神社(大阪府茨木市)」、「磐船神社(大阪府交野市)」などが該当します。


『8代孝元天皇の宮の伝説地』
 孝元天皇の『宮』の伝説地は、現在の奈良県橿原市大軽町周辺

 8代天皇が設けた宮は、これまでの天皇と似た地域にでした。


8代孝元天皇の御陵
 孝元天皇の『御陵』の伝説地は奈良県橿原市石川町にある「中山塚1-3号墳」。ただし、御陵がある「剣池」は応神天皇の御世に整備された池であり、古墳としても疑わしい要素が多くあります。

 「纒向遺跡」を代表する「箸墓古墳」は孝霊天皇(7代)の娘『倭迹迹日百襲媛命』が埋葬されているとされていますが、孝元天皇(8代)はこの『倭迹迹日百襲媛命』の異母兄弟にあたります。
 そのため孝元天皇(8代)の『宮』『御陵』は、もう少し『纒向遺跡』に近くて良いはずなのに、 これまでの天皇と同じ路線でした。


<今回の記事のまとめ>

 8代は これまでの天皇の傾向と異なり「鴨一族」(あるいは磯城県主)や「尾張一族」との関係をなくして「物部一族」との繋がりを突然深くしていきました。



<ここからは考察です>

【3世紀中頃の『実質的な日本の建国』(九州の「銅鏡の文化」が大和にシフト)】に関連しそうな記録を探していますが、その時期の天皇家の大きな動きとして、「8代天皇から突然、物部一族がと繋がりが深くなる」ということが分かりました。


 この「物部一族」「饒速日」を遠祖としており、「尾張氏や海部氏」の分家のような関係性だと思っていたのですが、それにしても「天皇(大王)家」と親密になるのが急激です。


 『「物部一族」が「北九州」からの「銅鏡文化」シフトに関わった』する場合、『遠縁である「物部一族」が「銅鏡文化」と共に九州からやってきた。』という筋書きを仮説立てすれば、辻褄があっていきます。

 このような仮説が成立するのかどうか、今後、この辺りを深掘りしていきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?