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出雲口伝における物部伝承⑧九州勢の東征1回目-3/3

「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を簡単に紹介しています。

※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。


<物部勢力の第一次東征:ヤマト争乱>

 フトニ大王が吉備に去った後に、ヤマト政権の大王となったのは、クニクル大王(孝元天皇・8代)であった。


出雲口伝の関連書籍による第一次物部東征
(遠い親戚での争いでもあった)


 このクニクル大王には、登美家のクニアレ姫を后(正室)に迎え、大彦とオオヒビ(大日々・開化天皇・9代)とモモソ姫(百襲姫)の御子たちがいた。

出雲口伝の関連書籍による系図


 ちなみにその頃のヤマト勢力は以下のような範囲と考えます。

2世紀末に突然破棄された「唐古・鍵遺跡」(奈良県)に出土した土器の由来
※2021年度特別企画展「弥生の巨大集落」のパンフレット(2021年10月発行)
(あいち朝日遺跡ミュージアム)より


※ちなみに、「唐子・鍵遺跡」は以前の記事でも紹介しています。



大彦は大王の長男であり、次の大王候補と見なされていた。そして彼は物部勢力と最後まで対抗した。

 ※ちなみに「記紀」には大彦が武埴安彦王の反乱を沈めた伝承が書かれています。そして、この内容は以前の記事でも書きました。


 しかしながら、力及ばず、ついに大彦は北を目指して総退却することとなった。 


 さらに勢力を強めた物部勢は、尾張一族もヤマトから追い出した。その結果、尾張一族は伊勢湾北部に移住することとなり、その地は尾張国の名がついた。

 また尾張家と分かれた海家は先祖の地である丹波に去った。

 そして、クニクル大王は、物部勢力と妥協して、物部氏の娘・ウツシコメを妃(側室)として迎え、争乱を収めようとした。

出雲口伝の関連書籍による 孝元天皇(8代)の系図


 ちなみに記紀では、大彦の母を「物部家」の娘「ウツシコメ」と記載しているが これは意図的な誤記としか考えられないと 「出雲口伝」の関連書籍では書かれています。

「記紀」における 孝元天皇(8代)の系図
※こちらでは「物部氏」系の母から大彦が生まれたことにされている。


<物部勢力の第一次東征:失敗に終わる>

古代の政治体制は「王・巫女制」と言われる。神祭りの司祭者である姫巫女(ひめみこ)が王と組んで、民衆の支持を集めた。

 大彦が去った後は、「オオヒビ大王 : 開化天皇(9代)」と「モモソ姫」で王・巫女制を築いた。そして、政権実務のオオヒビ王の武力よりも モモソ姫巫女の宗教力によってヤマト中心の政治安定が回復した。
 三輪山と含む磯城地方の領主は、登美家の9代目であるオオタタネコ(太田田根子)であった。彼がモモソ姫巫女の世話をした。


この姫巫女が広い地域の人々の尊敬を集めており、巫女のいない物部勢力は ヤマト地方の民衆には支持されず、磯城王朝に飲み込まれてしまった。 ちなみに物部勢力は、当時「星の神・カカセオ」を祭ったが、人気が出なかった。

そのため、物部勢力は九州に帰った者も多かった。


 そして第一次物部東征は失敗に終わった。

<纏向遺跡ができる>

「王・巫女制」において、三輪山祭祀の姫巫女(ひめみこ)は 民衆の尊敬を集めていた。
 大祭の前後の期間には、三輪山麓の扇状地「マキムク」に宿舎(竪穴住居)を建てて泊まるようになった。
そして、「モモソ姬」の祭りの神殿も建てられた。

 各地の豪族は、自分の地元の土器に土産物を入れて持参し、神殿に捧げた。神殿では、九州の影響を受け、銅鏡(神獣鏡)を用いるようになった。

 纏向遺跡から、外来系の土器が多く出土するという珍しい特色があった。
 近江国や伊勢・駿河など東海方面や関東地方の土器が多く、他にも瀬戸内や吉備地方、山陰、北陸の時もあった。 

以前の記事でも、纏向遺跡を紹介しており、九州地方の土器を見かけないことを記載しましたが、これは出雲口伝では「ヤマトの在来勢力の信仰が盛り返したため」と言うことになる。

(つづく)



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