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宇佐伝承における神武東征②

前回の記事に引き続き
【宇佐家伝承古伝が語る古代史 (著)宇佐 公康 】(1987年発行)
という書籍について紹介します。

<継承したのは、兄の景行天皇>

宇佐家の古伝によると
「神武天皇」(初代)が多祁理宮で亡くなった後、兄の「景行天皇(12代)」が継承して九州を親征した。
とある。


《宇佐口伝》関連書籍の内容を図解


<ちょっと考察します>

 何故だかわかりませんが、 初代天皇である「神武天皇」の兄が、12代天皇の「景行天皇」となっていて、跡を継いだこととなっています。

 宇佐家口伝では、
「神武天皇」(初代)=「崇神天皇」(10代)
と解釈しても良さそうな 時間の流れで書かれていました。


<その後の御諸別(みもろわけ)>

宇佐家の古伝では、
「ミモロワケノミコト(御諸別命)」は 「神武天皇」を父とする出自としている。

そして、この「ミモロワケノミコト(御諸別命)」「景行天皇」(12代)が跡を継いだ後に、東国の平定に出向することとなる。


《宇佐口伝》関連書籍の内容を図解


一方で『日本書紀』や「国造本紀」 などの系譜では、
「ミモロワケノミコト(御諸別命)」の出自は、宇佐家の古伝とは全く違っているけれど、「応神天皇(15代)」の即位後に東国鎮定に赴いて、多大の成果をおさめ、東国の平和と繁栄の基を築いたとされている。

記紀などによる系譜を図解

 ちなみに、その墳墓の地は、「 豊城入彦命」を始祖としている毛野氏一族の墳墓とみられる、 二荒山神社の丘陵社地とも推考されている。


<参考情報:日光二荒山神社 中宮祠・奥宮>

所在地: 栃木県日光市中宮祠2484
御祭神:二荒山大神 (ふたらやまのおおかみ)
  大己貴命   (おおなむちのみこと)     父
  田心姫命   (たごりひめのみこと)     母
  味耜高彦根命 (あじすきたかひこねのみこと) 子
御由緒:
・日光連山の主峰・日光三山を神体山として祀る。日光三山は男体山(なんたいさん:古名を「二荒山(ふたらさん)」)・女峰山(にょほうさん)・太郎山からなる。



<その後の宇佐津臣(⇒稚屋)>

宇佐家の古伝によると、
御諸別命の実兄である「宇佐都臣命」は、 神武天皇の御代となる西暦一八〇年前後、すなわち、二世紀の後半に、東遷の途上、筑紫国の菟狭の一柱騰宮に四年のあいだ滞在し、「菟狹津彦命」の妹、実は妻の「狹津媛命」に娶って「宇佐都臣命」またの名は「宇佐稚屋」が生まれた。
 この「宇佐稚屋」は、長ずるに及んで武人として騎馬戦を得意とした。


 伊予国の越智氏族が豊子海峡や豊後水道を渡って、 豊後国海部郡 (今の大分県北海部郡佐賀関町・臼杵市 津久見市および南海部郡蒲江町・佐伯市)地方に進出して定住し、菟狭氏族の海部民 (漁民)の生活をおびやかしたので、これを撃退するために、「宇佐雅屋」は武力を行使して、越智氏族と戦端を開き、両氏族のあいだに数年にわたって戦いが続いた。

《宇佐口伝》関連書籍の内容を図解


 ある戦いの時に、稚屋は越智宿禰の女で、すでに夫も子供もあった織姫を拉致して凱旋し、いわゆる略奪結婚をして宇佐押人が生まれた。
 この押人は、 『宇佐家本系図』には稚屋の子として明記されている

 そして、この略結婚のために、 稚屋は越智氏族の恨みを買い、つぎの戦いで馬上の背後からホコ (矛)で刺されて戦傷し、豊前国宇沙の地に引き揚げたが、戦傷が悪化して死亡した。 時に若冠二七歳であった。

 菟狭氏族の人たちは、 稚屋が神武天皇の皇子で、 宇佐都臣命であるところから、その死を悼んで広大な墳墓をつくり手厚く葬った。

 これが、現在、宇佐神宮の鎮座地である小椋山(おぐらやま)またの名は亀山である。

 この亀山はカメ(亀の形をしているところから、その呼び名があるといわれているが、考古学上は前方後円墳の初期のものである。 
 宇佐神宮鎮座地の亀山墳墓は、三世紀の前半期のものと考えられる。


(つづく)

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