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彦坐王の血統②彦坐王が陸耳御笠を討伐

 古事記には、崇神天皇(10代)の御代に、「彦坐王(日子坐王)を、旦波国に遣はし、玖賀耳御笠(陸耳御笠)を殺させた」とある。
 ちなみに日本書紀には記載がない。

 この「玖賀耳御笠(陸耳御笠)」の伝承が地方に残っていないか、いろいろと調べてみました。 

【1】どんな伝承か?

 偽書とされることもあるが『丹後風土記残欠』に、「日子坐王」が丹波で玖賀耳御笠を討伐した内容が記載されている。要約すると「陸耳御笠」は「青葉山」を拠点にしていたが、「余社之大山」(大江山)まで後退した。そして、そこで討伐されたとある。

もう少しだけ詳しく見ていくと以下の通りとなる。

  崇神天皇(10代)の治世、丹後の青葉山山中に「陸耳御笠(玖賀耳御笠)」(くがみみのみかさ)や「匹女(ひきめ)」を首領とする土蜘蛛がいて、人民を苦しめていた。そこで、日子坐王が討伐に来た。それを知った土蜘蛛の御笠は小賊を率いて、浦辺の海上へ逃げ去った。これを追撃して、丹後国と若狭国の境に至った時、忽然と御身の甲冑が鳴動して光輝を発し潜んでいた岩を照らした。形が金甲(かぶと)に似ていたので、これを【将軍の甲岩】と名付けた。そして、この地を【鳴生】(なりう)と名付けた。

     (途中省略) 
   ※2つの地名縁起が入っています。
   ・この地を【爾保崎】(にほざき)という。
   ・この地を【志託・荒燕】(したき)という。

 日子坐王が土蜘(つちくも)である 陸耳や「匹女(ひきめ)」たちを逐って、【蟻道郷】の【血原】に到ったとき、先ず、 土蜘である「匹女」を殺した。この戦いで辺り一面が血の原になったので、そこを【血原】と云う。その時、「陸耳」は降伏しよう としたが、日本得玉命が川下から追って来て、まさに迫ろうとした時、 陸耳は忽ち川を越えて逃れた。それで、官軍は楯を連ねて川を守った。 矢を放つこと蝗の飛ぶが如し。陸耳の党、矢当たりて死ぬ多し。(死体 は)流れて去る。それで其の地を、【川守】と云う。亦、官軍の駐屯地を 今でも【川守楯原】と云う。その時、船が一艘、川を下ってきたので、それに乗って土蜘を駆逐した。遂に、【由良の港】に到った。 土蜘の行方が判らなかった。そこで、日子坐王は陸地で礫を拾って占った。それで、陸耳が【与佐の大山】へ逃げ込んだことがわかった。それで、 其の地を【石占】と云う。亦、その舟を【楯原】に祀って【舟戸神】となづけた。

このあたりの伝承です。

・【鳴生】   ・・・ 舞鶴市「成生」と推定
・【爾保崎】  ・・・ 舞鶴市「匂ケ崎」と推定
・【志託・荒燕】・・・ 舞鶴市「志高」と推定

・【楯原】 ・・・ 福知山市大江町「蓼原」と推定
・【石占】 ・・・宮津市「石浦」 (由良川の河口)と推定
・【血原】 ・・・福知山市大江町「千原」と推定
・【蟻道郷】・・・福知山市大江町「有路」と推定
  ※近傍にある「阿良須神社」に次のような伝承がある。
  「天火明命」が この地を通る際に、この地の神に助けられたことからこの地神に「蟻道彦大食持命」という称号を与えた。 



【2】共に戦った「日本得玉命」は誰?


 日本得玉命については、籠神社『勘注系図』にヒントが書かれている。

始祖 彦火明命を始祖とする、海部氏の系図において、八世孫に「日本得魂命」が出てくる。またの名を「川上眞若命」という。 母は諸見己姫。

つまり、「彦坐王(日子坐王)」は「海部氏」と協力して、討伐したことになる。

・「日本得魂命」の父は、「七世孫」「建諸隅命」である。
またの名を、 「建日潟命」、「彦由麻須命」、「建日方命」 「丹波縣主 由碁理命」という。「開化天皇(9代)」の妃となる「竹野姫」の父でもある「由碁理」と同一人物である。

・さらに遡って、「日本得魂命」の祖父は、「六世孫」「建田勢命」である。「建田勢命」は「孝霊天皇(7代)」の御代に、丹波国から、山背国の水主村に移り住んだ。その後、さらに大和国に移り住み、そこで葛木の高田姫を娶り、「建諸隅命」を産んだとある。

【この記事のまとめ】

「彦坐王(日子坐王)」が、海部氏・尾張氏の系列である「日本得魂命」と協力をして、丹後地方を攻略した伝承が残っていました。

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