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鏡作坐天照御魂神社<天照国照彦火明と称える鏡を祀る>
神武東征より先に大和を治めていたとされる「饒速日」(ニギハヤヒ)を追いかけています。これまでの記事から「饒速日」には「天照国照彦火明」という別名があり、その息子が「天香語山」、その孫が「天村雲」であることが分かってきました。これらの名前を頼りに、大和地方で情報集めすることにしました。
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鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいますあまてらすみたまじんじゃ)
<祭神>
天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)
石凝姥命(いしこりどめのみこと)
天糠戸命(あめのぬかどのみこと)
※「天糠戸命」は「石凝姥命」の父親神であるとされています。
4~5世紀にかけて鏡類を製作鋳造していた鏡作部がこの地一体に居住し、御鏡(天照国照彦火明命)並びに遠祖(石凝姥命)を氏神として開いた神社とされてます。
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ここには鋳鏡を洗い清めたといわれる鏡池がある。そして、鏡池からは「鏡石」とよばれる鏡の研磨加工に使ったと思われる遺物が出土しています。
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そして社宝として三神二獣鏡を所蔵しているらしい。
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この「三神二獣鏡」は、実際は、中国製の「三⾓縁神獣鏡」の外区(外周部位)が⽋落したものと考えられています。
以前の記事で書きましたが、3世紀中頃に北九州を中心とした「銅鏡祭祀」の文化が、大和を中心にシフトして古墳時代に遷っていきます。この3世紀中頃からの大和を中心とする銅鏡文化を支えた地域なのでしょう。
では、なぜ「天照大御神」でなく「天照国照彦火明命」が祀られているのでしょうか?
<御由緒より>
第10代崇神天皇の御代に、三種の神器の1つである「八咫鏡」を皇居(桜井市金屋)にお祀りすることは恐れ多いとして、別のところにお祀りすることとなり、皇居には別の御鏡(日御像の鏡)を祀るため、作ることになりました。 そこで天皇の命により「石凝姥命」の子孫である「鏡作部」が崇神天皇6年9月に、此の地において御鏡(日御像の鏡)を鋳造しました。これを内侍所の神鏡と称します。
その鋳造にあたって試鋳した御鏡(像鏡)を「天照国照彦火明命」と称えてお祀りしました。
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つまり、
神話:「石凝姥命」が作った。
【鏡①】「八咫鏡」 ⇒ 伊勢神宮へ
3世紀中頃以降:「鏡作部」が作った。
【鏡②】試鋳の御鏡(像鏡) ⇒ 当神社で「天照国照彦火明命」として
【鏡③】御鏡(日御像の鏡) ⇒ 皇居の内侍所で「神鏡」として
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場所は、弥生時代の大型環濠集落である「唐古・鍵遺跡」の近くにあります。「唐古・鍵遺跡」には、「銅鐸の鋳型」も見つかっており、重要な生産拠点でした。しかしながら「纒向遺跡」の成立とともに、集落は衰退します。
そして、「唐古・鍵遺跡」の衰退の時期に この地で鏡作が始まったということになります。
「天照国照彦火明命」自身の足跡ではありませんでしたが、後世に祀られた伝承が残っていました。
<蛇足ですが「三⾓縁神獣鏡」を掘り下げます>
ここの「神宝」である「唐草文帯三神二獣鏡」は「三⾓縁神獣鏡」の外区(外周部)が取れたもので、更には中国製とされています。
「三⾓縁神獣鏡」は「卑弥呼の鏡」とも言われており、「景初三年」(239年)や「正始元年」(240年)などの年号が記された鏡も見つかっています。つまり後漢(25年 - 220年)が滅び、魏などの三国が成立した頃の年号がかかれている鏡もあります。
ネット情報を調べると、この「三⾓縁神獣鏡」は『中国からは1面も出土しておらず、中国で出土する後漢や魏晋鏡ではここまで大きな銅鏡は存在しない。』ということから「すべてが仿製鏡(国産の鏡)ではないか?」という説を唱える方もいます。つまり『「魏志倭人伝」にある「卑弥呼が魏からもらった100枚の銅鏡(舶載鏡:輸入の鏡)」は「三⾓縁神獣鏡」では無いのではないか?』という説です。
ここの「神宝」である「三⾓縁神獣鏡」が中国製とすると、重要な情報だと思うのですが、私が調べられたのはここまででした。
「神宝」である「三⾓縁神獣鏡」は次のどれになるのだろう?
1.実は「中国製」でない?
2.実は「三⾓縁」でなかった?
3.本当に中国製の「三⾓縁神獣鏡」だった?
<蛇足ですが>
式内摂社に「笛吹神社」がありました。非常に珍しいです。
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次の記事では、「笛吹神社」を取り上げる予定です。
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