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凡人の履歴書

日経新聞の「私の履歴書」を読むのが楽しい。日経新聞は難しい言葉の羅列であり、私は新聞を読むというより新聞を眺めている。「私の履歴書」も同様で、私には難しい言葉が多く出てくるため、その人の歴史を読むというよりは、眺めていることが多い。新聞を読むということは、私が社会人である証であり、社会とつながりを持てていることを自分自身に証明している。出費をおさえるため、サブスクは一つ減らすが、新聞の購読は意地でも続ける。

「私の履歴書」では、あらゆる分野で功績を残した人の、幼少期から現在にいたるまでを知ることができる。芸能の世界で活躍した方の人生の話などは、私にも読みやすくて楽しい。どの方の話にも、戦争や学生運動のエピソードが出てくるが、それらがけして遠くない過去の出来事だとは信じがたい。

子供のころはわんぱくでやんちゃで、周囲の人を困らせた、という類の話も興味深い。70歳になったジャイアンが、大物になっている可能性だってあるのだ。できすぎ君の要素も必要だろうけど。

「私の履歴書」で、初めて明かされる話も見過ごせない。子供のころに、近所の川で死にかけたことがある、というような、九死に一生を得たエピソードも時折見られる。大人に叱責されるかもしれないから、当時は大人に言えず、今初めて明かす、というわけだ。恐怖体験はお口のチャックを固くする。

忘れられないのが、ノーベル賞を受賞した利根川進氏の回だ。履歴書の中で、ノーベル賞はいらないから息子を返して欲しい、という旨が書かれている箇所がある。利根川氏のご子息は大学生の時に他界している。ご子息は天才児だった。天才児と表現されるような、人の十倍、お勉強やその他もろもろができる人物は、孤独や悲しみ、不安感を抱く力も、人の十倍持っているのかもしれない。不安を感じる力。この世に疑問を抱く力。ある程度は生まれ持ったものであり、親が介入するのも難しい側面なのかもしれない。

私の履歴書では、祖父母の人生の詳細が書かれていることもあり、どうしてそれらがわかるのだろうと、いつも不思議に思う。私は両親の出世地でさえそれで合っているのかあやしい。皆が皆、ファミリーヒストリーに出ることはできない。いつか私の子どもたちが、私の人生に興味を持つ日がくるかもしれない。その時のためにも、私の誕生から現在までの記録を、箇条書き程度にまとめておこうか。誰にも読まれなかったとしても、それはそれで構わない。



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