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【短編】ダーティーワーク 汚れ仕事


 今から自殺者の部屋を掃除しにいく。隣の部屋に住んでいる女性が、今頃死んでいる。おれはマスクを着けて、ゴム手袋を装着し、上下捨てても良いジャージを身につけている。遺体処理に関して素人だから、こんなのが衛生管理になるのか、それとも気休め程度のものなのかは分からないが、ないよりはマシだろう。
 首を吊って死ぬのが、最近の彼女(隣に住んでいる女性のことだ)の趣味だ。首を吊って死ぬと、糞尿が垂れるし、体のいろんな穴、例えば鼻や口から液体がドロドロ出てくるので、そういったものから菌を貰わないためだ。おれは彼女と違って常人だから、病気にかかるのはごめんだ。
 別に他人が死んだのを観察したり調べたりするような趣味はない。これは頼まれごとだ。まあ「自殺するから部屋と体の掃除を頼む」なんて、簡単に言える相手は確かにいない。おれも金を貰えるからと割り切ってやっている。

「おい、入るぞ」
 ノックをして、声をかけた。返事など聞こえるはずもないが。おれはマナーを守る方だ。死んでいるから当然返事はないわけで、儀式的に数秒ほど待って、鍵の開いているドアを引いて中に入る。一人暮らしにしては広い2LDK、間取りは俺の部屋とほぼ同じだ。玄関を通ってリビングに近づくにつれ、異臭がするのが分かる。もう何回も処理をやったので慣れたが、最初は吐きそうだった。リビングに着くと、女性が首を吊って死んでいた。
 おれは驚かない。前もって聞いていたのだ。「自殺するけれど自分じゃ片付けられないから、私が死んだあとで掃除に来て」とのことだった。
 足をだらりと垂らした女性の下では、股から両足を伝って落ちた糞尿が、小さい沼のように溜まっている。よだれか鼻水か分からないものが垂れて、その跡が顔に残っている。乾き切っているから、死んだのは少し前だということが分かる。着ているゴシック風のスカートがすっかり汚れてしまっていた。
 おれは死のうなんて考えたことはないが、こんなに汚れるなら上下ジャージで実行すれば良いと思う。服がもったいない。
 掃除をしてもまた排泄物が落ちてきたら困るので、まずは天井から吊るされた縄から、女性の体を解放する。服を脱がして一旦裸にし、汚れを全て拭き取って、一応牛乳石鹸で体を洗っておいた。そして、あらかじめ用意しておいたジャージを着せ、ふかふかのソファに寝かせる。ソファの端には、大きいマイメロのぬいぐるみが置いてある。
 床の掃除には、トイレットペーパー、除菌床拭きシートなどを使って、拭き終わったものは大きいゴミ袋に捨てて処理した。最後に、元々彼女が着ていた服をどうするか、悩んだ。一応ゴム手袋をした上で手揉み洗いしてみたが、汚れ(何かは言わなくても伝わってくれると思う)が残ってしまっている。
「くっさ!」
 女性の一言目はそれだった。彼女は目覚めた。蘇生したと言うべきか。
「蘇ったか」
「うんちの臭いするんだけど」
「君のだよ」
「佐藤くんがいるってことは、また私死ねなかったの? ここって地獄じゃないわよね?」
「臭い以外はな」
「サイアク。しにたい」
「死ぬこと自体には成功しているんじゃないか? 呼吸だって止まっていたし、実際のところ、肉体に起こっている反応は一度死んだ人間のそれだぞ」
「そういう話じゃなくて、今私が、鳳凰優子が生きていることが問題なの」
 こんな死にたがりに「鳳凰」なんて苗字がついているのは皮肉以外の何物でもないなと、つくづく考える。おれはとりあえず、掃除という頼まれた仕事に徹することにした。
「この服、どうする? ニオイも汚れも取れるか怪しいぞ。既に3回か4回、これ着て自殺したはずだからな」
「えー、お気に入りだったのに」
「第一、汚れるのが分かっているのに、どうして捨てても構わない服を選ばないんだ? 服がもったいない」
「だって、死装束くらい選びたいでしょ。私は死ぬつもりなんだから。服とか部屋とかどうなったって、私には関係ない。もったいないって言うのは、生きている人の考え」
 そう言われると、納得する。だが、彼女の体は彼女が死ぬことを許さないらしい。
「やれと言われたら出来る限り掃除はするが、服はクリーニング専門店とかの方が良いかもしれない」
「二十歳の女がうんちついた服持って行ったらびっくりされるでしょうが」

 鳳凰優子がなぜ死なないのか、あるいは、なぜ死んでも生き返るのか。その理由はおれには分からないし、詳しく説明されたこともない。ともかく彼女は何度死んでも蘇る「ゾンビガール」なのだ。前に一度、なぜ死後蘇生するのか尋ねたことがあるが、「自殺しすぎて、死んでも蘇生するようになっちゃったんだよねー」とのこと。本人もよく分かっていないのかなと思う。ともかく彼女は、すぐ死にたがり、すぐ復活する。
 なぜ死にたいのかという動機については、聞いたことがない。なんとなく、話が長くなりそうだからだ。おそらく彼女は数え切れないくらい自殺しているし、普通なら諦めるはずだ。これほど死にたがっているのは、間違いなく彼女の心に闇があるからだろう。そんなところに触れたくはないし、言っちゃ悪いが面倒くさそうだ。
 鳳凰とおれはしばらくの付き合いだが、出会った頃から死にまくっていた。よくやっていたのはナイフによるもので、首を掻っ切ったり、顎からナイフを刺して頭の上まで貫通させたり、心臓を突き刺したりしていた。だが、ナイフを抜くとしばらくして蘇生してしまう。他にも近くのマンションから飛び降りたり(おれも近くを通ったが見て見ぬふりをした)、線路に突っ込んだり(おれの乗っていた電車が止まって迷惑だった)していた。ちなみに彼女の死体は、他人に発見されるともちろん通報され、一旦救急車に乗せられるが、なぜか蘇生したことにも触れられず、ニュースなどにもならず普通におれの隣人として帰ってくる。蘇生どころか、彼女が自殺したこと自体が、一切外に漏れたことはない。この辺は病院やマスコミなどがどうなっているのか分からないし、深く聞いたことはない。あまり詳しく聞くとおれが消される可能性があるらしい。
 このアパートは、地下にバーがある。数週間前、そこのバーで鳳凰が死にたい死にたいとうるさかったから、ちょっと閃いたおれは隣で酒を飲みながら提案した。
「鳳凰、首吊りはやったことあるのかい? 首吊りなら、蘇生しても吊られっぱなしでまた死ねるだろ」
「あんた天才。でも、何回も繰り返し死ぬのは本望じゃないんだけど。一回だけにしたい」
 そういうわけで話が進み、一日に一回おれが鳳凰の部屋を見にきて、死後の処理をしてくれとお願いされた。1回10万円の給与を出すと言われた。おれも天才だと持ち上げられたせいか、二つ返事で頷いた。そういうわけで、現在に至っている。

 隣人の自殺は別に構わないが、首吊り後の処理は、今回で最後にしようと思っている。死後の異臭にも、汚れた部屋を掃除するのも疲れてきた。一回10万円は自殺部屋の処理、しかも素人処理にしては高いらしいが、疲れた。元々おれが提案したのもあって請け負っていたがもう続かない。おれは別に、自殺する人を責めはしないが、近頃事故物件の清掃業者の人を心底尊敬するようになっていた。まともな業者なら、おれがやるような簡単な仕事ではないだろう。部屋の消臭とか消毒とか、壁や床の修繕、もっとやるべきことがたくさんあるはずだ。
 結局捨てることになったゴシック服を、ゴミ袋に詰め込んだ。きつく結んでおかなくてはならない。
「ねえ佐藤くん、昔道徳の教科書に載ってた『あなたが生きている今日は、昨日死んだ人が生きたかった明日だ』って言葉、私大嫌いなの」
「だろうな」
「私が死にたい今日を、代わりに誰かが生きてくれるのかって話じゃん」
「幸福も不幸も死生観も人それぞれだからな。他人に生きろって言うのも死ねって言うのも、価値観の押し付けに他ならない。じゃあ、この服は捨てるぞ」
「分かった」
「あと、もう首吊りはやめろ。やっても良いけど、おれはもう、掃除役をやらない」
 ゴミ袋を持って立ち上がった。用件は言ったし。
「どうしたの急に? 給与増やすからやってよ」
「流石に耐えきれん。金に困ってるわけでもないしな」
「ケチ」
「金じゃねーつってるだろ。せめてさ、もうちょっと計画的に自殺するとかあるだろ。例えば、二日間飲まず食わずで暮らして、その後実行すれば糞尿はほぼ出ないはずだ」
「最後の晩餐は好きなものいっぱい食べるに決まってるでしょ」
「最後の晩餐今まで何回食ったんだよ。他にも、下着を身につけず安物のシャツとパンツを着るとかすれば、お気に入りの服を汚さずに済む」
「だから、死装束はお気に入りが良いでしょ」
「死装束を何回着たんだよって話だ」
「じゃあ、工夫すれば遺体処理やってくれるの?」
 返事するのに、数秒かかった。これでは、鳳凰の相談にのっていることになる。そうだった、おれはもう自殺の手伝いもしないし、その後の処理もやらない。
「いや、やらない。だいたい、何十回首を吊ったんだ。もうこの方法では死ねないことは分かりきったはずだ。首吊り縄も死装束も、もったいな……」言いかけて、もったいないとは生きている人が使う言葉だということを、思い出した。「もったいないとは言わないが、準備に苦労するだけだろう」
 言い終わる頃には、おれはドアを開けて外に片足を出していた。
「鳳凰、元気でな」
「『楽に死ね』って言ってくれない?」

**
 鳳凰の英雄ぶりは見事だった。おれはただ、コンビニで酒を買った帰りで、遠くからパトカーの音を聞いていた。それ自体はなんの変哲もないことだ。
 パトカーの音がやたら近づいてくるので、おれは辺りを見渡した。そこでパトカーと、それを撒こうとしているのか、明らかに時速百キロは出している暴走車が視界に入る。カーレースだ。おれは状況を飲み込んだので横断歩道に近づかなかったが、反対側にいた少年はそこまで気付かなかったようだ。横断歩道を少年が渡るとき、暴走車が赤信号を無視して突っ切ってきた。
 こういう一大事では時間がゆっくりに感じるのは本当らしい。あの光景はよく覚えている。暴走車の中の男が顔を真っ赤にしてクラクションを鳴らす。それに気づいて、驚いた顔を車に向ける少年。少年の両足が車を避けようと動く。少年の母親らしい女性が名前を叫び手を伸ばしているが、その手は届きそうにない。瞬間、ゴシックファッションの女性が飛び出して、少年の体を突き飛ばした。
 暴走車に撥ねられ、女性の体は10メートルは宙を舞い、頭からアスファルトに突っ込んだ。暴走車はガードレールに突っ込み、母親は少年を泣きながら抱き抱え、近くを通る男女が叫び声を上げる。吹っ飛ばされた死体は転がって、偶然にもおれの方へ顔を向けた。白い肌に、彫りの深い目鼻立ち。口元のほくろ。鳳凰優子の瞳孔は、完全に開いていた。
「君は、しょっちゅうおれの近くで死ぬね」
 返事はなかった。

**
 事件があってから一週間。地上波や新聞では、鳳凰は出自不明の英雄として扱われていた。おれは鳳凰が救急車に運ばれるところまでは見たが、その後どうなったのかは知らない。

 昼間、おれがベランダで洗濯物を干していると、横のベランダからタバコの煙が漂ってきた。顔を手すりの外に出して見ると、鳳凰がベランダで椅子に座ってタバコを吸っていた。大して大きくないベランダに、肘掛けのある椅子とパラソルを置く気がしれない。
「ご機嫌よう、佐藤くん」
「優雅だね」
 おれは顔を引っ込めて、洗濯物を干していく。
「鳳凰、帰ってきてたのか」
「残念ながらね」
 壁越しに、鳳凰の声が聞こえる。言う割に、そこまで機嫌は悪くなさそうだ。
「ヒーローの帰還だな」
「その件も面倒よ。病院で蘇生したら、公安? か何か黒スーツの人が目の前にいてさ、『顔が有名になったから、ほとぼりが冷めるまでアパートから出るな』って」
「死んだはずの人間が生きていたら、またニュースになるしな。公安も君の蘇生能力を隠したいんだろ。君が死んだのがニュースになったのは、今回が初めてだね」
「情報統制が間に合わなかったとか何とか、公安の人が言ってたわ。うざいよね。二人で公安潰さない?」
「おれは、君みたいなゾンビと違うんだから無理言うな。ところで、ひとつ聞きたんだけど、少年を助けたのは善意からか? それとも死にたかったから?」
 鳳凰のいるベランダから、ライターの火がつく音が聞こえた。新しいタバコを吸って、吐いた煙がこちらのベランダへやってくる。
「死にたかったからに決まってるでしょうが」
「そうか? ずいぶん必死に見えたがな」
「あ! あのときあんた、現場にいたでしょ。あんたの声聞こえてたんだからね」
「そうなの?」
「死んでても耳は働くって、あれ本当だから」
「君が、助けても何のメリットもない少年を救うのは意外だったね。思ってたより善玉なんだな」
「だから違うって。まあ何でも良いでしょ。偽善でも本物の善でも、外から見たら同じなんだから」
「確かに。ともあれ、あの親子は心底君に感謝してるだろうよ」
 おれは鳳凰の顔が何となく気になって、ベランダ越しに覗こうとしたら「こっち見たら殺す」と言われた。


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