シェアハウス・ロック2311下旬投稿分

【Live】公金チューチュー1121

 前回お話ししたあの方が、表題で流行語大賞を狙っておられるらしい。ご本人も冗談で言ってらっしゃるんだろうけど、私も冗談で言っている。冗談の2乗である。
 さて、加計学園が、傘下の千葉科学大学の公立化を銚子市に願い出たという。加計学園は安倍晋三の「もりかけ桜」の「かけ」である。この「かけ」は、愛媛県今治市に新設した岡山理科大獣医学部を巡る「お友だち優遇」疑惑だったが、千葉科学大学の方もなかなかである。
 千葉科学大学を誘致した当時の野平匡邦市長は、岡山県副知事を経て、加計学園・岡山理科大で客員教授を務め(なにを教えたのやら)、02年の選挙で大学誘致を掲げて当選。当選翌日、加計孝太郎理事長と会見を開き、構想を発表した。スピード開学した2年後の開学式には、当時自民党幹事長代理だった安倍晋三も出席した。
 なかなか手回しがよろしい。しかも、至れり尽くせり。
 というのは、市は市有地9・8ヘクタールを無償提供し、建設費用77億超を助成したからだ。年予算が240億程度だよ、銚子市は。この資金源には、市債を発行してあてた。市債は来年には完済するという。そこへきて、公立化の要請である。
 千葉科学大には、薬学部、危機管理学部、看護学部の3学部があるが、大学院を含めて定員割れ。定員2281人に対し、1528人であり、充足率67%である。深刻なのは今年度の入学者で、228人と、定員の46・5%。半数にも満たない。学部があっても、危機管理はしなかったんだね。
 ちょっと話は変わるが、すぐにつながるのでご安心いただきたい。
 自民党の萩生田光一政調会長は、09年の総選挙で落選したが、翌年千葉科学大の客員教授に就任(なにを教えたのやら)。このあたりにも、「お友だち優遇」がチラついている。
 この方は、安倍晋三狙撃事件後すぐに、「今後いっさい統一教会とは関りを持たない」と言明された。私は統一教会でもなんでもないけど、「なんて恩知らずな」とむしろ憤慨したものである。さんざ、世話になっておきながら。
 安倍晋三狙撃事件でフレームアップされたのは、その祖父である岸信介以来の旧統一教会と自民党との癒着関係であったはずである。ところが、いまや、旧統一教会ばかりがフレームアップされているようになっている。「もりかけ桜」も、私が知っている限り、なにひとつ解明されていない。次から次へと不祥事が勃発するので、いつまでもかかずりあってはいられないのかね。なかなかいい手ではある。
 前回、政治の話は当『シェアハウス・ロック』ではしないようにしようと考えていたと申しあげたが、前回同様、今回も政治の話だとは、私は考えていない。
 政治以前というか、もっと下司な話であって、前回は「品格の話」、今回は、「公金チューチューの話」である。

初めてのカレーその後1122
 
 初めてのカレーの成功に気をよくした私は、その後も、もちろん毎日ではないけれども、料理をつくるようになった。ちょうど我が家に中華鍋が導入された時期だったし、「一番」(『シェアハウス・ロック1112』味の教育者参照)のおじさんに憧れ、中華鍋を使いたかったのだった。
 だから、炒飯が多かった。あれは、簡単のように見えて、なかなか奥が深い料理である。小学4年生からだから、もう60年はつくっている。超ベテランである。
 よく「炒飯がうまい中華料理店は他の料理もうまい」と言うが、あれは都市伝説のようなものではないかと、私は思っている。と言うのは、私は、炒飯の本質は賄い料理だと思っているからだ。手近な材料でサッとつくり、サッと食うものだと思う。
 私ら家族が鵠沼海岸にいたころ、よく子どもたちに中華料理をつくった。そのころも、土日しか家にいられなかったので、土曜日の夜に中華料理をつくり、その食べ残しで、日曜日の昼に炒飯をつくった。
 その炒飯は、「豚の餌炒飯」というネーミングだった。
 たとえば、前日、八宝菜をつくったとする。その食べ残しを、まず具は細かに切り、水分は別にとっておき(トロミがついているので、水、酒などで薄めておく)、具をカラカラになるくらいまで炒める。そして、「水分」で味をつける。最後に、若干の調味料で味を整える。これが、我が家の名物「豚の餌炒飯」である。もちろん、具が必要十分でないときには、あらかじめ別途加えておく。
 長男はこれが気に入り、通常の炒飯だと、「えっ、今日は『豚の餌炒飯』じゃないの?」と言ったことすらある。
 周富徳という人がいた。もう亡くなったが、私は一回だけ、この人のつくった炒飯を食べたことがある。炒飯の名人と言われていたが、それほどのこともなかった。
 友だちというより、後輩に近いやつの結婚パーティだった。宴半ばで、周富徳が出てきて、ステージ様のところで、炒飯をつくりはじめた。そのころはテレビにもよく出て有名人だったので、皆立ち上がり、騒然となった。
 周富徳は、
「あわてない、あわてない。全員分つくりますからね」
と言った。「ああ、この人はもうダメだな」と私は思った。そのパーティは会費制だったので、「全員分つくるのはあたりまえだろう」とも思った。私は気が短いので、後輩の結婚パーティじゃなかったら、席を蹴って立ち、そのまま家に帰ったはずだ。
 案の定、それから数か月後に、この人は暴力事件でテレビ界から去り、この人の弟は脱税で大々的に取り上げられ、逆にテレビにしょっちゅう出るようになった。
 我がシェアハウスに来客があったときに(おばさんは客を呼ぶのが好きだ)、昔は料理役をおおせつかることがよくあった。〆は炒飯である。
 私は、必ず、「周富徳より、私の炒飯のほうがうまい」と言い、時間差があるけれども、溜飲を下げることにしていた。

歯を抜いた1123

 先々週、左の下奥歯を歯医者に行って抜いてもらった。その歯は前から相当悪かったのだが、だましだまし使っていた。たまに腫れた。それでも、かばいかばい使っていると、いつの間にか治る。そうやっていたのである。
 ところが、どうやってもだまし切れなくなってきた。それで、仕方ない、行って抜いてもらったのである。
 歯に関する私の基本路線は、「歯がだめになるか、本体がだめになるかの勝負」というものである。本体が死んでしまったら、いくら歯がよくてもなんの役にも立たない。
 ところが、その歯が痛いため、ものが噛めなくなったのである。これじゃあ、本体にも影響が出るだろう。それで仕方ない、抜いてもらったわけである。いまは快調。
 話は変わるが、当『シェアハウス・ロック』は、「シェアハウスの勧め」で始まった。シェアハウスメンバーのおじさん、おばさんの紹介が終わった後は、私の少年時代(というか古きよき昭和時代)の話になり、落語というか、古今亭志ん生さん一家の話になり、ジャズ喫茶の話になった。現在は、食い物の話である。
 これは、当初、暇ネタを書き溜めておいたためである。長女、友だちに勧められてノートに投稿を始めたものの、友だちは「毎日更新すること」と条件をつけてきたので、とりあえず1年とか続けられるように、暇ネタを書き溜めたのである。シェアハウスったって、若い人のシェアハウスなら話題もいろいろとあるだろうけど、老人のシェアハウスだから、イキのいい話はメダカネタくらいしかないからね。
 いま、全体構想のごときものを書いたが、食い物の話が終わったら、次は「老いることについて」といったシリーズになる。
 これなら、ネタは腐るほどある。周りは老人だらけだからね。年寄りネタならどんとこいである。
 年寄りシリーズの基本テーマは、「年取るとこんなになっちゃうのか」と、読んでくださる若い人に、いやーな気になっていただくことである。でも、いやーな気になっても、多少は参考になると思うよ。誰でも年は取るんだし、年寄りの言うことは聞くものだ。
 ヨハン・セバスチャン・バッハが、なんの本だったか、「年を取っていいことなんてなにもない」と言っている。「○○が××になる。△△が□□になる」と言ったあとで、「耳のなかを蜂がブンブン飛びまわる」と言っている。音楽家なんで、耳が大事だったんだろうな。〇△□×は、凡庸なんで忘れた。それにしても、「蜂」はすごいね。私なんざあ、せいぜい「蚊」である。
 このころの人は、電話がなく、だいたい手紙でやりとりをしていたので、こんなつまらない話も残っているわけなんだろう。ベートーヴェンは、「コーヒーは、(確か)43粒の豆で淹れるのがいい」と言っている。これもけっこうつまらない話だ。こっちは、晩年、耳が聞こえなくなって筆談だったから、その紙切れにでも書いてあった話だろうと思う。

おばさんの凱旋1124

 11月10日に、手術を受けたおばさんは、実は、17日には退院している。ところが、おばさんは、今回の入院については、ごくごく親しい、より正確には現在親しくしている人たち数人にしか言っていない。おばさんにはお姉さんと妹さんがいるが、その方たちにも言っていない。そこで、当『シェアハウス・ロック』に書いていいのかどうか、まず悩んだ。
 一方、私ら3人のシェアハウス生活を知っており、当『シェアハウス・ロック』を読んでくれている私の友人も何人かはいる。おばさんを直接知っている彼らは、心配しているだろうと思う。
 それで、早くに報告したかったものの、あちら立てればこちらが立たずで、悩んでいたわけである。
 で、今日になってしまったわけだ。
 結論から言えば、手術は成功、おばさんは元気。まずはめでたしめでたしである。シェアハウス生活も、私の家事負担が若干は増えている程度で、それほどの変化はない。
 退院当日は、このところ頻出するマエダ(夫)が車を出してくれ、なんとマエダ(妻)も一緒に迎えに行ってくれた。これは、おばさんの人徳であると言わざるを得まい。なんだか、私、不満そうだが、そんなことはないよ。
 おばさんは、手術後数日で病院内のコンビニへ行き、それほど長くもない距離にもかかわらず血圧が急上昇してしまったため、新宿区内の病院からの退院に際しては、八王子までタクシーを使うかとすら考えていたので、これには大助かり。
 車を出してくれたと簡単に言ったが、その車はアウディの(たぶん)最高級車で、「凱旋」という表現にふさわしい威容を誇るものだ。マエダ家は、ブルジョワジーなのである。
 病院内にある某有名レストランの出店で私らが待っているところへ、おばさんが登場。マエダ(妻)が同乗していることはサプライズでとっておき、ラインでも知らせなかった。もちろん、おばさんは大喜び。うっすらと涙すら浮かべていた。鬼の目にも涙。
 もう12時に近かったので、私はそこでなにやら食って帰途につくと考えていたのだが、おばさんは鬼の本性を発揮し、私らの住んでいるところの近くの和食屋で昼飯を食うことを宣告したのであった。腹減ったよ。私はだいたい11時ごろには昼飯を食ってしまうのである。
 でも、その和食屋をマエダ夫妻は気に入ってくれたので、空腹を我慢したかいはあったというものだ。
 11月29日は、退院後の初通院である。この日に、かなりなことがはっきりするはずで、数人の私の友人にもこの場で詳しい報告ができるはずだ。

【Live】馳浩石川県知事の講演1125

 11月22日の毎日新聞「余禄」に、馳浩石川県知事が、確か東京都内の講演で話したことが取りあげられた。「余禄」から紹介する。ちょっと文章がヘンだが、それはそのまま紹介するからであり、前文を省略しているからだ。

 自民党衆議院議員に東京五輪招致に当たった石川県の馳浩知事だ。講演で安倍晋三元首相から「必ず勝ち取れ」「官房機密費もあるから」と指示されたと語り、「メモを取らないで」と念を押した。

 最後の「念を押した」もよくわからないが、おそらく馳知事が「講演のなかで…」ということか、安倍晋三が前の発言に続き「念を押した」か、いずれかなんだろうと思う。
 さて、この発言に対し、自民党内部から相当の反発があり、馳は「事実誤認があった」と発言を撤回した。再び、「余禄」から。

 だが、どこが誤認かは明らかにしていない。

「事実誤認」というのはここのところ、この方々の定型句だな。どこを「事実誤認」したかをはっきりさせるのは、「余禄」では「政治家の説明責任」と言っていた。よしんば、「どこ」ではなく、全体が事実誤認でもいいよ。でも、それだったら、なんで事実誤認したかの説明責任はある。あんまり誤認なんかしないネタだとは思うけど。
 確かに、IOCの倫理規定には、「地元の慣習に従ったごくわずかな価値の贈り物のみ受け取ることができる」とあるようだが、これは、IOCの委員に対する規定であることは明らかである。馳は、1冊20万のアルバムをつくり、世界中を歩き回ったそうだ。でも、それを貰って非難されるのはIOC委員の側である。
 だから、なにが問題で自民党内部から反発があったのか、少なくとも私にはまったくわからない。官房機密費は、使途を明示しなくともよいという規定がある。だが、使途を明確にしてはいけないという規定があるなどとはあまり考えられない。もしかしたらあるのかなあ、機密だから。
 もしかしてあるなら別だけど、ここまでの前提で、私に考えられることは、いまの自民党内部には、闇から闇へというか、拠らしむべし知らしむべからずというか、なるべく事柄を明確にせず、やりたいことだけやってしまうという風土があるのではないかということである。
 馳発言で困る人なんて、本当は誰もいないはずだ。
 だが、あの東京五輪そのものに関して、私には異議がある。それは明日に。

【Live】大阪万博1126

 当『シェアハウス・ロック』では政治の話はするまいと思っていたと前に申しあげたが、昨日の話は政治の話だった。申し訳ない。
 本日のネタは、政治と言うよりも経済である。まあ、私なんかがブツブツ言ってもなんの影響もないけどね。ただ、言いたいことを言わないと、腹が膨れると兼好くんも言っているし、それでなくとも老齢であっちこっち具合が悪いのに、このうえ腹が膨れたら大変だ。
 東京オリンピック(64年のほうね)も、70年の大阪万博も、それなりに意味があったと思う。東京オリンピックでは、あれをきっかけに新幹線ができ、首都高も整備された。つまり、社会資本が整備された。社会資本やオリンピックそのものに税金を投入した乗数効果には、大きなものがあったと言える。
 政治は、極言すると、集めた税金をどこに使うかを決めるものである。それ以上の意味は本当はあまりない。
 だが、経済は、政治や思想よりももう少しは科学的である。
 だから申しあげるが、もう、ああいったイベント・ドリブンの経済は無効ではないのか。少なくとも、日本のような国(というか、先進国)ではほとんど意味がない。
 アベノミクスは、トリクルダウンが起こるのが前提だった。その前提で大企業を優先した。ところが、一例を挙げると、あれでトヨタは最高益をたたき出したにもかかわらず、その「益」は内部留保に回された。たったこれだけでも、トリクルダウンは起こっておらず、アベノミクスは失敗だったことがわかる。
 安倍晋三は、企業に賃上げを要求した。あれを善政と考える人がいるかもしれないが、あれ自体が失政である。国家社会主義と一緒だ。国家社会主義とは、ナチズムとか、日本陸軍の統制派と同一であり、ろくなもんではないのは自明である。
 ところで、次の大阪万博は、Point Of Noreturnを越えたのだろうか。ご存じの方には申し訳ないが、例えば飛行機の離陸時に、ここからはもう止まれないという地点がPoint Of Noreturnである。そこを過ぎたらとりあえず飛ぶしかないという地点である。もし間に合うんだったらやめたほうがいい。やめるのに多少金はかかっても、やめたほうがいい。
 そこへいくと、冬季五輪に反対している札幌市民は賢明である。賞賛に値する。
 だいたい、ああいったイベント・ドリブンの経済は、経済の拡大期にこそ有効であるが、いまの日本ではほとんど意味がなく、害すらあると思う。
 また、集めた税金を、トリクルダウンが起こらないところへ投入するのは、その業界を優遇したいということでしかない。こんなもの、本当は政治でもなんでもない。
 国民全体に向いて政治をやっているのであるならば、トリクルダウンが起こらない=乗数効果がほとんどないというところへ税金を投入するのは、「何というご失政ではありましょう(©磯部浅一)」である。一般民衆は、アベノミクスの置き土産である物価高にこれだけ苦しんでいる。
 途方もないことを言うが、こういう経済政策だったら、まだベーシック・インカムみたいなほうが有効だと思う。同様に、科学技術も拡大、進展なんていうベクトルだけを見るのではなく、むしろ縮小、後退の技術を開発したほうが有効な気がする。もう、成長神話は終わったのである。

料理の先生1127

 水道橋に「ジロー」という喫茶店があった。19歳のころ、約8か月くらいだったが、そこでアルバイトをした。喫茶店のアルバイトというのは、当時、気軽な仕事だったのである。気軽に入れ、気軽にやめられた。当然のことながら、なにもできないので、ボーイとして入った。
「ジロー」は1階と2階にわかれており、1階は飲み物とケーキ、2階は料理も出していた。私のホームポジションは1階だったが、2階に回されることもよくあった。2階に回されたときは、料理が出てくるカウンター越しに、コックの仕事を見ていた。コックの仕事をおぼえたかったのである。
 ある日、厨房から手招きをされた。
 厨房に入り、「なんでしょう」と聞く私に、「ちょっとやってみろ」とその人は言った。「だって、ボーイとして入ったんですから」と答えた私に、その人は「いいんだ。オレが、いいって言えばいいんだ」と言った。「おまえ、やりたいんだろう。ずっとオレ、見てたからわかるんだ」。
 それからは、モグリの弟子として、料理の基礎の基礎から教えてもらった。なかなか厳しい先生だった。
 話は変わるが、高崎宗司という人がいる。韓国の専門家である。けっこう偉くなっている。この人が、「思想の科学」社の編集者だった時代に、私の友だちと一緒に訪ねていったことがある。高崎さんは、その友だちの恩師だったのである。高崎さんはちょうどそのころ韓国語の勉強を始め、「親の金でする勉強は身に付かないけど、自分が稼いだ金でする勉強は身に付く」とおっしゃっていた。確かに身に付いたようで、かなり短い期間で高崎さんは韓国の専門家になってしまった。
 だが、私は、もうちょっと過激に「金を払ってする勉強は身に付かないけど、金を貰っておぼえたことは身に付く」と言いたいところである。
 これは、私のタチにもよると思う。私は気が小さいので、金を貰った分は働かないとという強迫観念があり、よって、ちゃんとおぼえないとと思い、結果として身に付くのではないかと思う。
「ジロー」をやめた後、どういういきさつだったかは完全に忘れてしまったが、JR神田駅から徒歩3分くらいの喫茶店で働いた。ここではカウンター内に入り、まがりなりにもひとりで切り回した。この先生のおかげだったと思う。私の恩人であるし、この人から教わったことが、人生のなかで一番役に立っている。
 
『壇流クッキング』1128

 神田駅至近の喫茶店をやめたあと、短期間中華料理店等々で働いたこともあったが、次の料理の先生はこの『壇流クッキング』であり、著者の壇一雄である。壇一雄は、壇ふみの父親。
 この本は、サンケイ新聞に連載された記事をまとめたものだ。
 料理本と言っていいだろうと思う。微妙な言い方をしたが、それは、通常の料理本のように砂糖を1/2カップなどというような姑息な書き方はいっさいしていないからである。
 つくり方も痛快無比。
 たとえば、「イカのスペイン風」を紹介すると、
「魚屋からイカの全貌を貰ってくる」「捨てるのはイカの船(軟骨)とか、イカのトンビだけで、あとは肝も墨も一緒にブツブツとブッタ切ればよいのである」それを「ゴタ混ぜにし」「イカの塩辛のモトみたいなものをつくる」。
 これをフライパンで炒めるわけだが、味付けも痛快。
「なに、塩コショウとお酒だけで結構だろう」。
 これは、圧倒的に正しいと思う。そもそも、野菜その他の食材は、当たり前だが工業製品ではないので、味にばらつきがある。だから本当は、砂糖を1/2カップなどというのは、ほとんど無意味なのである。素材の味がそもそも違うのだから。
 檀さんの父親(教師)が赴任した足利(栃木県)で、檀さんの母親が出奔してしまった。壇さんご自身も、後年ほぼ出奔という人生だったから、出奔の家系なんだろうか。
 母親の出奔時、檀さんの3人の妹は、まだ小学生にもなっていなかった。よって、炊事の負担はすべて壇少年の双肩にかかった。父親は当時の男であるから、炊事などしたことがなかったし、できもしなかったのである。
『壇流クッキング』の「まえがき」から引用する。
「炊飯器や、電熱器や、ガス器具など、まったくない時代だ。/インスタント食品など、もちろんない」「全部を七輪か、カマドで煮炊きしなければならぬ」
 だが、檀少年はめげなかった。
「当時の思い出の中で、例えば、アンカケふうに片栗粉でトロミをつけることを覚えた時の嬉しさといったらなかった。今でもハッキリとその驚きを覚えている。/ジャムをつくる事を覚えたのも、愉快な思い出の一つである」
「まえがき」の日付は、昭和45年6月となっている。文庫本になったのは、昭和50年9月である。これも「まえがき」でわかる。
 私が購入したのは文庫本だったから、26歳のときに手に入れ、「壇流」に入門したことになる。
 私は、料理をつくるのが好きである。それは、「食」を自分の手にする感覚であり、自分で食うものを自分でつくっている限り、「自主独立」といった感じを味わえるからである。
『壇流クッキング』は、この「自主独立」にあふれた本である。

中華鍋の手入れ法1129

 私は、中華料理が好きである。だから、中華鍋は大事にし、手入れもかかさない。ずいぶん、長女、長男には、これで料理をつくった。
 長女が大学に受かり、そこは家からだいぶ遠いので、アパートを借りて住むことになった。いろいろ所帯道具をそろえ、「調理道具はどうする?」と聞いたところ、「とりあえず、中華鍋ひとつでいい」という答えが返ってきた。私は、「やったね!」と思い、相当に嬉しかった。中国人は、中華鍋ひとつで相当の料理をつくる。私もそれにならっていたのだが、それを見ていたんだろうな。
 さて、中華鍋の手入れ方法について書いていく。
 まずは、買ってきたときのお話を。
 店頭に並べられている中華鍋は、錆止めのために鉱物油が塗られていることが多い。だから、買ってきたときだけ、中性洗剤を使って洗ってもよい。よく洗った後、空のまま火にかけ、洗いきれなかったかもしれない鉱物油を完全に焼き飛ばす。中華鍋が熱いうちに、ボロ布などに植物油を含ませ、それで表面を拭き、油をなじませる。
 次に、野菜屑を炒め、さらに油をなじませる。これで使用可になる。
 さて、次は日常の手入れである。ここからは、『ヨーロッパ退屈日記』(伊丹十三)で得た知識だ。
 使い終わったら、即水を張り、火にかける。グラグラ煮立ったらしばらくそのままにしておき、「ささら」で鍋をこする。「ささら」だと、鍋を火にかけたままこすれる利点がある。こすった後湯を捨て、再び火にかけ、水分を飛ばし、油を塗って次の使用に備える。
 ここまでが伊丹説。
「ささら」は100均で売っているが、自分でつくるのも簡単である。竹を竹串の半分程度に割り、手元と全体の2/3辺りを二か所タコ糸、もしくは細い銅線でしばればOKである。
 ところが、「ささら」には欠点があり、その最大のものは「ささら」自体が汚れることである。相当に汚くなる。
 仕方ないので、私は、「ささら」の代わりにたわしを使うようになった。ただし、湯は捨てなければならない。熱湯を流しにあけることになるが、これは排水管、特に排水管の接着剤を痛めることになる。それを防ぐため、洗い桶に水を張り、それを流しながら、中華鍋の熱湯にも水を足して若干でも冷ましたお湯を捨てることにしている。接着剤は、こうしても一番熱いところに反応するのだが、気は心である。
 たわし段階で、私ほどのベテランになると、焦げ付きが残っているかどうかがわかるようになる。たわしへの抵抗でわかるのである。焦げが残っているときには、銅のブラシでていねいにこする。この方法ならば、「再び火にかけ、水分を飛ば」すことは必要だが、「油を塗って次の使用に備える」必要はない。油膜は保全されているからだ。
 私の信奉する平松洋子さんは、焦げ付きがひどい場合、サンドペーパーでこすればいいとおっしゃる。相当にドラステッィクな手口だが、効果はありそうだ。でも、まだそこまでの段階に至ったことはないので、試してはいない。
 ちなみに、中華鍋で卵を炒るときに、まったく卵が鍋に付かない状態だと、中華鍋は完璧に手入れされていることになる。多少なりとも鍋に卵が付き、フライ返しでかきとる必要があれば、手入れが十分ではないのである。

フライ返し(ターナー)1130

 中華鍋に水を張り、火にかけ、たぎらせるのは、本当は使い終わった直後にやるのがよい。ところが、料理ができたら、即食いたい。一人暮らしのときは、中華鍋を火にかけたまま、食事をし、食事が終わってから手入れをしていた。
 ところが、これがおじさん、おばさんには気になるらしい。何回も、「火がつきっぱなしだよ」と言われた。つけてるんだから、つきっぱなしは当たり前だが、これを言ったらケンカになりそうなので、この手口はあきらめた。
 そこで、食事が終わって食器を洗う際、まず中華鍋に水を張り、火にかけてから食器を洗うようになった。食器を洗い終わるころには、中華鍋がたぎっている頃合いである。フライ返しも、鍋のふちに引っ掛けるように置いておく。こうすると、フライ返しについたこげも洗いやすくなる。
 ところがフライ返しの柄(握りの部分)はプラスチックなので、熱で劣化する。ある日、プラスチックの部分が、スポッと抜けてしまった。
 とりあえず100均で新しいものを買い、それを使っていたが、古い方をなんとか再生できないものかと考えた。
 私が着目したのは、エビスビールを箱買いしたときについてきた竹製のテーブルまな板である。これを割り、彫刻刀で溝を掘り、木工ボンドをつけ、フライ返しのボディを挟み、Gクランプで締めつけて固定した。2、3日経って、かなり堅牢なフライ返しになった。
 ところが、私は、木工ボンドが熱に弱いことを知らなかった。前述のように、鍋のふちに引っ掛けて火にかけたところ、あっという間にダメになってしまったのである。
 とりあえずこの「残骸」は、水につけ、ていねいに洗った。木工ボンドは水に溶けるのである。ところが、そこからが大変であった。
 近所のスーパー、遠くのDIYに行って接着剤の説明書を読みまくったが、だいたい耐熱温度は200度くらいまで。ちょっと不足である。結局、ネットで350度まで大丈夫というものを探し出し、購入に至るまで、100均で買ったものもダメになり、もう1本買い、それは中華鍋を熱するときふちに掛けないようにした。
 最終的に、柄を竹製にしたものは3本になり、そのうち2本はいまだに「新品」である。
 つまり、350度までOKの威力はなかなかで、多少竹の部分が焦げたものの、まったく問題なく使えているわけである。
 私の孫は女の子で、いま小学1年生である。「新品」のうちの1本は、彼女が使ってくれればいいなあと思っている。たぶん、彼女がおばあさんになるまで使えるはずだし、おばあさんになる前に、自分で食い物をつくる「自主独立」を果たしてもらいたいものだと思っている。

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