シェアハウス・ロック2312初旬投稿分

コウ・ケンテツさん1201

 壇一雄さんの次の料理の先生は、コウ・ケンテツさんである。
『週刊新潮』の「健康ごはん塾」という連載でファンになったのだが、この人は、説明文が明快。相当に頭のいい人なんだろうと思う。
 巷にあふれている料理本は、「そんなことどうでもいいだろう」というところで、なんだかチマチマした工夫をしているものが多い。一例を挙げると、白菜を使うべきところを、キャベツにしたりしている。本当に、こんなことはどうでもいい。三流料理家ほど、こういうつまらん工夫をしたレシピを発表している。
 でも、三流料理家に若干の同情をすると、こういう人の本には三流編集者がつくはずで、こいつらが寝言で、「なにか新味がないと」とか「一工夫ないと」とか言うのであろう。
 今度は三流編集者に若干の同情を示すと、新味や一工夫がないと、彼/彼女の上役である三流上司が、ぶつぶつ言うんだと思う。
 こういう構造で、普通の料理本は、なかなかの惨状をきたしている。
 前述のコウ・ケンテツさんの連載は、どれもこれも本当に面白かったが、私の一押しは「アフリカンチキン」である。これは、説明文も秀逸だった。
 現物は大事にし、よってどっかに必ずあるはずなのに、大事にし過ぎたためか出てこない。仕方ない、記憶で書いてみる。ディテールは多少違うかもしれないけれども、大意は合っているはずである。

 アフリカンチキンといっても、食べられるのはマカオである。
 ポルトガル人がアフリカで、現地のコックにチキンを焼かせた。当然、現地のコックは唐辛子を使い、辛く仕上げる。ポルトガル人は気に入り、彼らが東へ東へと向かうおりに、この料理もお供をした。インドではターメリック、チリパウダーなどのスパイスと出会い、それを取り込み、インドシナ半島ではココナツミルクと出会い、それも取り入れ、ポルトガル人はマカオにたどり着いた。
 そこで、最終的に中国人のコックに出会い、熟練の彼らの手で、アフリカンチキンは完成したのである。

 コウ・ケンテツさんの説明文は、もっと名文だったし、歴史もきっちり踏まえている。なにより、たかだかチキン料理に、地球大のイメージを十二分に表現しているところが素晴らしい。こういうのをグローバルというのである。
 壇一雄さんもコウ・ケンテツさんも、料理を語っても色見がはっきりしている。これは、相当の資質であると思う。
 それに対して、前述の三流連中がつくった料理本のレシピは、色を混ぜすぎ、なんだかはっきりしない色になってしまっている。
 余談だが、光の三原色はRBG。レッド、ブルー、グリーンである。この三原色を混ぜると、白になる。対して、絵具の三原色は、YMC。イエロー、マゼンタ(赤)、シアン(青)である。これを混ぜると、理論的には黒になるが、実際は、灰色というか、黒に近い灰色といった汚らしい色になる。

【Live】リハビリすぎ1202

 29日は、おばさん退院後初検診の日であった。私も荷物持ちで随行した。というのは、退院の前々日、病院内のコンビニに行こうとして血圧が急上昇し(200を超えたそうだ)、不安があったからだ。私ではなくおばさんが、ね。私は、全身麻酔による一過性のものだと思っていたので、それほど心配はしていなかった。
 おばさんは、じつは子宮がんだった。とは言っても、開腹手術で全摘し、経過は良好だし、現在のところ他への転移も見られず、それほど心配することもない。
 ところが、医者は、基本的に万全を期すものである。よって、リンパ節の切除(これは内視鏡手術なので、それほど体への負担はない)、その後、抗がん剤の点滴を5セットこなすことを提案してきたという。
 さてどうしたものか。
 これは、生命観というか、人生観にかかわる選択である。
 可能性としては、がん細胞がリンパ液、血液に混じり、あっちこっちに飛んでいる恐れはある。だが、それが着床し、腫瘍性のがんになる可能性は、比較的低いはずだ。人間には免疫機構があり、それが浮遊しているがん細胞を殺してくれる可能性がある。
 よしんば、どこぞに着床したとしても、それが腫瘍性のがんになるには、そうとうの時間がかかるだろうし、その前に別の原因で死んでしまう可能性すらある。
 29日の夕食時に、こういった話題が出た。あまり夕食時の話題ではないが、もう全員年寄りなので、平気である。年を取っていいことのひとつだな、これは。
 おじさんは、医者提案のフルセットをこなす説だった。「後顧の憂い」をなくすということなんだろう。私は、自慢じゃないが、「後顧の憂い」だらけの人生だったから、「憂い」とともに生きる人生を選ぶ。ひとつぐらい憂いが増えても、どうということはない。誤差の範囲である。
 がん細胞一個が、Point of Noreturnを過ぎるのはおおむね腫瘍が1㎝くらいになった時点であるとよく言われる。それ以下だとなんかの加減で治ってしまうことすらあるそうだ。がんの部位や、個人差もあるだろうけれども、がん細胞一個がそこまで成長するのには、10年程度かかることすらあると思う。
 私は現在74歳である。10年かかったとしたら84歳である。たぶんそこまでもたないだろうから、「あんた、84歳で、がんで死ぬよ」と言われても、「ああ、そうすか」と答えるだけだろうと思う。
 まあ、おばさんの選択である。それは尊重したほうがよい。
 ところで、29日の夕食に、おばさんはリハビリと称して、ビールのショート缶を一本飲んだ。「あぶねえなあ」と思っていたところ、やっぱり私が飲んでいた日本酒に着目し、それを追加し、相当飲んだ。私はだいたい1合でやめるが、それでもお付き合いで、さらに1合飲んだ。おばさんは、トータル3合くらいは飲んだのではないか。
 リハビリすぎ! 案の定、翌朝におばさん血圧が上がり、大変な騒ぎをした。もともと飲み過ぎると翌日血圧が上がる傾向があったが、このときは手術前を含めて2か月近く禁酒していたから、さらに効いたんだろうなあ。
「リハビリすぎ」は、なんだか、「よくばりすぎ」と語感も似ていて、この間の造語活動のなかでは気に入っているものである。

【Live】おばさん、悩みに悩む1203

 朝起きると、まず喘息の吸入をする。もちろん、その前に服を着る。寒くなってきたので、寝間着のままだと風邪を引いてしまう。
 階下に降り、やかんに水を入れ、火にかける。リビングにあるテレビの電源を入れ、それにつながっているDVDプレイヤーにCDをセットする。このごろ、朝は必ずバッハである。
 コーヒーを淹れ、朝一番の煙草を吸う。
 コーヒーを飲んでいるうちにお腹がすき、パンを焼き、ミルクをコップに入れ、食べ始めたあたりにおばさんも階下に降りてくる。
 昨日は、パンを焼く前におばさんが降りてきた。
「どうしたもんかねえ」が、おばさんのテーマであった。もちろん、一昨日の話の続きである。
 50代以前だったら、私は、「それは昨日議論しました」と一蹴したかもしれないが、70代になり、さすがに「これは議論したいんじゃなく、悩みを共有してくれということなんだな」とわかるようになってきた。これも、歳をとることの功罪の「功」であると思う。
 でも、私としては一昨日話したことを繰り返すしかない。
 一昨日の話のあとに、私は折衷案を考えた。もう少し正確に言えば、話の最中にこの折衷案は浮かんではいたのだが、ややこしいので口には出さなかったのである。
 その折衷案とは、まず、リンパ節切除を行ない、それを生検にかけ、その結果で判断するというものである。生検の結果、転移の可能性が少なかったら抗がん剤をやめるか、やめないまでも弱いものにしてもらうかするということである。
 別の言い方をすれば、すべてに早め早めの方針を出すのではなく、ステップ・バイ・ステップで、その時点時点での最良策を講じるということである。
 ところが、私のように「後顧の憂い」だらけの人生じゃなかった人たちには、こういう「逐次判断」ではなんだか安心できず、それも悩みのタネになるのだろうなあ。それもわかるような気がする。
 まあ、私の推測では、「折衷案」に落ち着くだろうと思う。
 おばさんの鉄火場麻雀のメンバー、青ちゃんとイノウエさんに、おばさんはしょっちゅう「あいつらは牌を切るのが遅い。あれは考えているのではなく、悩んでいるだけだ」と文句を言っている。これと同じなのになあ。
 でも、こんなこと言うと、「麻雀と人生とは違う」と怒り狂うだろうしなあ。
 私の考えでは、悩みの軽重は違っても、悩みの構造は同じである。いずれにしても、正解はわからないのだから、「コレッ!」と決めたら、「それ」でやるしかない。
 考えたってわからない。正解はないんだから。結果から遡って、正解だった、間違えていたとなるしかないんだから。
 こういうときに、私が拳拳服膺するつげ義春さんの名言がある。どの作品かは忘れたが、つげさんは作中人物に次のように語らせている。

 「よくよく考えてみたら、なにも考えることはなかったんだな」

【Live】私は、おばさんに冷たいわけではない1204

 昨日、一昨日とおばさんネタだった。一昨日は、「リハビリすぎ!」などと、冗談まで言った。おばさん、がんの治療方針で悩んでいるのに、私がおばさんに冷たいのではないかと思われたかもしれない。で、そんなことはないよと言いたいのが今回である。
 まず、私自身も大腸がんになったし、開腹手術も受けている。男の大厄の歳に会社でなかなかの出来事があり、たぶんそのときのストレスでがんが急速に成長したのではないかと私は考えている。その翌々年にがんの手術を受けた。1996年の12月である。
 私はそのころある書籍を準備しており、著者に「がんの手術を挟み、2か月程度作業をお休みする」旨を伝え、私は入院した。約二か月後、彼と会い、「どうでした?」と聞かれ、私は「いやー、おもしろかった」と答えた。彼はあきれて、共通の友人などにこのことをしゃべり、この発言は私の友人の間に広まることになった。 
 でも、決して強がりというんではなく、入院自体が初めての経験ということもあり、けっこうおもしろかったのである。
 入院期間は40日。手術は入院後30日目であった。いまはそんなことはないのかもしれないけれども、この30日間は、患者を手元に置いて、効率よく種々の検査をするための期間ではないかと私は思った。だからこの期間は非常に暇だったのである。
 当初、私は、『パンセ』(パスカル)を読んでこの期間を過ごそうと思っていた。ところが『パンセ』は、「省察」といっていい本で、なんだか結核とか、そういう古典的な病気にしか合わない気がして、読むのをやめた。
 その代わりに私が読んだのは、がんに関する書籍だった。これはおもしろかった。自分ががんなんで、リアリティもあるしね。
 新書などから読みはじめ、最終的には専門書に近いものまで進んだ。時間は売るほどあるので、相当読書ははかどった。読了したものは枕元のテーブルに積みあげておいたのだが、30センチ近くなった。担当の加藤医師は、「普通は、がんの『が』って言っただけでも嫌がるのに、こういう人は初めてだ」とあきれていた。
 この30日間で、私はがんに関して相当詳しくなったと思っている。
 大腸は、内側から粘膜層、筋肉層、漿膜下層、漿膜層に大別される。わたしのがんの主患部は漿膜下層に達していたが、そこからちょっと離れた位置にある小さながんは、漿膜層にまで達していた。つまり、万が一を期して、少し余分に切除するわけである。この「少し余分に切除」はおばさんにも適用されているはずで、このことも、おばさんに関しては安心材料であるはずだ。
 がんはできたり、自然に治ったりすることや、私ら素人が考えているよりもずっと成長は遅いということ、だが、自覚症状があったときには、かなり手遅れであること、また、一口にがんというけれども、できた部位によったり、あるいはがんのタチによったりで、相当いろんなタイプがあることも知った。
 一番最後のことを、近藤誠さんは、「がんもどき」という言葉で説明している。今回のおばさんのがんでは、グレードという用語を使っていた。たぶん、がんのタチの良しあしを、グレードというふうに表すようになってきたのではないかと思う。
 スーザン・ソンタグは『隠喩としての病い』(1977)で、さまざまな病気の「神話化」に触れ、結核、梅毒、ペスト、そして若干はがんについても触れているけれども、少なくともがんに関してはうまくいっていない。
 30センチ近く積み上げたなかで、私が一番気に入った言葉は、「がんも身のうち」というものである。これは、書名は忘れたが、吉田富三の著作のなかにあった言葉だ。この人は吉田肉腫で有名になった。がん細胞の培養で、世界初の成功例と言っていいと思う。
 つまり、吉田さんは、がんは病気というよりも、自分(の遺伝子の活動結果)そのものなのであると言っているのである。
 だから、手術で根絶と考えるよりも、どちらかといえば「剪定」に近いイメージで、育ちすぎたからちょっと削って様子を見るとか、そういったものだと思う。このことを、近藤誠さんは、「患者よ、がんと闘うな」と言っている。これは、近藤さんの著作の書名にもなっていたと思う。
 スーザン・ソンタグは、このあたりのことが微妙にわからなかったと言える。
 よって、おばさんの悩みも、「がんと共生」と考えた瞬間に溶解するはずで、その状態であと何年生きるかと考えるのが正しいと思う。10年やそこらは大丈夫のはずだ。

壇一雄さんと私との大きな違い1205

 食い物の話に戻る前に、一言申しあげたいことがある。
 それは、「老人3人のシェアハウス生活では、たいしたことは起こらないので(暇ネタを書き溜めてきた)」ということに関してである。これは訂正しなければならない。前回の骨折、今回の手術と、けっこう多彩である。多彩と言うよりも、多事多難だな。
 シェアハウス生活で、メダカネタは、けっこうホッとする話題だが、多事多難のほうは、ちょっと息が詰まる感じがするかもしれない。でも、実態だから、仕方がない。
 遺児のメダカたちは、大きいのは年長さんの組に移し、小さいほうは、ベランダでは年を越せないといけないのでプラスチックの水槽に入れ、家のなかに移した。こっちには、毎日餌をやっているが、年長さんのほうは冬眠状態に入った。冬眠状態が解けるころには、プラスチック水槽の連中のほうが大きくなっているかもしれない。
 さて、「ジロー」で最初の料理の先生から薫陶を受け、次の先生は『壇流クッキング』だったことはお話しした。『壇流クッキング』の著者壇一雄さんと私との違いは、こと料理に関しては、檀さんが「食いしん坊」であるところだ。
 この「食いしん坊」というのは、料理をするに際して大きな利点であると思う。「うまいものを食いたい」という執念みたいなものがあると、いずれうまいものをつくれるようになるはずだ。
 そこへいくと、私は、どちらかと言えば「素材に失礼にならないようにする」といった消極的な態度であり、執念に欠ける傾向がある。
 私の理想の食生活は、
「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」
というものであり、事実、こういう食生活を2年近く続けたことすらある。でも、これは食生活というよりも、精神生活と言ったほうが近いなあ。
 檀さんのように食欲にかられてではなく、必要に迫られてというのが私の料理である。
 それでも執念を燃やすところはある。
 私の叔母は、船橋の漁師さんへ嫁いだ。私が小学生のころ、よく、自家製の海苔の佃煮を届けてくれた。これがおいしかった。本当かどうか知らないけど、当時、瓶詰で市販されていた海苔の佃煮は、海苔の製造工程で出た「クズ」でつくると言われていた。であれば、一度乾したものだから味が落ちるのだろう。ところが、自家製のほうは生海苔である。まるで違う。
 表示に「生海苔使用」と書いてある佃煮の市販品もずいぶん試した。だが、やはり違っていた。船橋の漁師さんのとは比べものにならない。
 八王子に移ってから、生海苔が売られているのを発見した。当然、買って佃煮をつくってみた。友だちにも配ったが、好評。最高評価は、「売ってるのとは別物!」であった。
 つくり方を以下に記す。
(1) 生海苔を買ってきたら、ざるにキッチンペーパーを敷いたうえにあけ、水切りをする。2時間程度これをやり、最後に気持ち絞り、水分を減らす。
(2) 鍋にあけ、火にかける。ぶつぶついってきたら、2、3分そのまま続け、砂糖(ほんの少し)、醤油、みりん、日本酒で味をつけ、さらに5分くらい熱する。残った水分を飛ばすのである。この間、焦げ付かないようにずっとかき混ぜる。
(3) 火を止め、やや冷めたあたりで、わさびを入れ、かき混ぜる。わさびはチューブのものでいいが、混ざりにくいので、おたまに絞り出し、その上で混ぜ、それをさらに全体に混ぜるようにする。
 自家製海苔の佃煮を配ったなかに、マエダ(夫)もいた。マエダ(夫)は、「うまいのでご飯をお替りした」とラインで言ってきて、自分でもつくったという。ただし、(3)でわさびの代わりに、醤油で煮た粒山椒を入れたそうだ。この人も「壇流」の人なのである。

料理で大事だと思うこと1206

 料理の際、まず大事なのは、自分の舌を信じること。
 そうして、本などのレシピ、特に、砂糖小さじ二杯、塩小さじ一杯みたいなのを信じないこと(もっと大雑把なところ、たとえば火加減などは信じてもよろしい)。例えば、玉ネギでも素材自体で微妙どころか、相当味が違ったりするから、本当は、そんなことは言えないはずなのである。
 例を示す。今年の8月だったか、近所のスーパーでイチジクを売っていたので、それでジャムをつくった。三個のイチジクをそれぞれ1/8くらいに切り、それを片手鍋で熱し、最後にスティックの砂糖を4つ入れた。外でコーヒーを飲んだときにくれるやつである。もちろん、味をみながら。これで十分だった。たぶん、相当甘いイチジクだったのだ。普段は、この倍くらい砂糖を使うのである。
 次に、外でうまいものを食ったら、それを自分で再現しようと試みること。これはいい練習問題になる。当然、一発では同じ味どころか、似た味になることすらも少ない。当初はそんなもんである。だが、何回か繰り返すうちに、だんだん近似したものになっていくはずだ。
 前回お話しした生海苔からつくる佃煮だって、なかなか船橋の漁師さんがつくったようにはならなかった。それでも三回目くらいには、まあまあの味になった。
 次に、なめてかかること。どんなうまい料理でも、同じ人間がつくったものなんだから、再現できないはずはないと信じることである。
 ただ、なめ切ってはいけない。どっかしらで、うまい料理に対する畏敬の念は持っておいたほうがいい。
 それと、プロがつくるものは手間のかけ方が違うことは知っておいたほうがいい。例えば、中華料理で最後にかけ回すスープなどは、家庭でつくることはまず無理で、これは固形スープや顆粒状の鶏ガラスープなどで間に合わせるとかするほうが現実的である。
 それでも、鶏ガラスープ程度だったら暇なときに大量につくっておき、冷凍保存しておき、それを逐次使うくらいのことは可能である。やはりこうすると、顆粒状のものを使うことに比べ、一味違うものになることは間違いない。
 スパイスは、なかなかに重要である。
 鉄火場麻雀の後は、その雀荘のあるビルの一階の居酒屋で青ちゃんとおばさんと3人で飲むことになるが、私は必ずポテトフライを頼み、それ用のスパイス(チリパウダーとカイエンペッパーを混ぜたもの)を持参し、出てくるトマトケチャップにこっそり混ぜることにしている。これだけでも、相当に気分が変わる。
 昼飯によくつくる炒飯も、イタリア風、メキシコ風、もちろん中華風、東南アジア風、和風と、スパイスやその他ちょっとしたものを加えることで、だいぶ雰囲気が違ってくる。
 チリパウダー、カイエンペッパー、ケチャップ、トマト、ナンプラー、コリアンダー、タイム程度を用意しておけば、炒飯ひとつであちらこちらに行った気分になれる。
 最後に、一番大事なこと。それは楽しむことである。嫌で嫌でたまらない状態でつくると、素材だって反発してくると思う。私は精神論者ではまったくないが、その程度の精神は持っているのである。
 

なめてかかることの重要性1207

 30歳のころ、初めて海外に行った。アメリカである。観光ではない。仕事である。
 こっちが言うことはおおむね通じた。ところが、相手の言うことがわからない。言ってることのわかる相手もいることはいる。だが、わからない相手も多い。「おれは、こんなに英語ができなかったのか」と、だいぶがっかりした。
 三日目くらいに、「待てよ」と思った。「日本でだって、相手の言うことがよくわからないことがあるぞ」と思ったのだ。もうちょっと正確に言えば、「日本でも、よくわからないことを言うやつがいるぞ」と思ったのである。
 道を聞く。例えば、「市民会館はどう行きますか」と聞く。
 模範解答は、「この道をまっすぐ行くと右側に郵便局があります。そこを右に曲がって、5分も歩けば、右側に市民会館があります」といったところだろう。
 ところが、実際には(ちょっと誇張するけど)、「この道をまっつぐね、まず行く。右側に大きなスーパーが見えてくる。そこまで行ったら行き過ぎだから、注意したほうがいいね。それよりずっと手前の郵便局を右。歩いていくと、左側に小学校がある。そこの前を、ちょっと行き過ぎたあたりの右側にある」 
 日本語でもいまいちわからないが、これを英語で言われたら、さらにわからないだろう。
 たぶん、私が相手の言うことを聞き取れなかったのは、頭のどこかで模範解答を予測していたからだったのだと思う。その模範解答を参照しながら聞いていたので、相手の英語が聞き取れなかったのだと考えたわけである。そこからは楽勝であった。 
 つまり、なめてかかる。おれもだめだが、もしかしたら相手もだめかもしれないと考える。これは、基本的にどんな領域でも有効なのではないか。
 ここでも、「でも、なめ切ってはいけない」は有効だろうと思う。
 ついでに言うと、アメリカでは、どんなバカだって英語をしゃべる。正確にはちょっと違うけど。英語があまりしゃべれないアメリカ国民だってけっこういる。でも、バカでもしゃべるんだからとなめてかかり、最初はパンパン英語だっていいからしゃべればいい。中学英語だったら立派なものである。これは本当のことだ。中学英語程度の立派な英語をしゃべるやつは意外と少ない。
 余談だが、「道を教える」で思い出したことがある。
 30代のころ、訪ねた相手はまったく忘れたし、そこを訪ねた用事も忘れたが、
「駅からこう行って、ああ行って、こう行くと、そこにおばあさんがいるから、そこを右に曲がって左側の三軒目です」
というふうに教えられ、半信半疑ながら、その通り行って、たどり着いたことがあった。
「こんにちは」
と入っていったら、開口一番、
「おばあさん、いたでしょ?」
と言われた。
 おばあさんが道しるべになったのは、このときが最初で最後である。余談にもほどがあったね。ゴメン。

「独学者の匂い」1208

 おばさんは、まだヒーヒーいっているころだったので参加できなかったが、陶芸(教室)の忘年会があった。「教室」にかっこがついているのは、会場である市民センターへの届け出が、おそらく「同好会」だからだ。たぶん、「教室」であると受講料が発生するとか、そういった事情なのだろうと思う。
 なんでこんなことを言いはじめたかといえば、この間、料理の話から「なめてかかることの重要性」について話題が移ってきたからである。私は、たいがいのことは「なめてかかって」やってきたが、陶芸だけはまったく歯が立たなかった。なにひとつ思い通りにならない。通い始めて2年経ったいまでも、多少はこうつくろうと考えられることもあるが、でもほぼ同じ状態である。当初、隣の人などに、「なにをつくっているんですか?」などと聞かれると、「粘土に聞いてください」と答えたくらいである。粘土が、「こうなりたい」と言っているのに沿って、やっていくしかない。
 でも、もしかしたら、これは重要なノウハウなのかもしれないぞ。円空は、木を見ていると、仏さまの姿が浮かびあがってくると言ったそうだ。
 ところで、同好会とは言ったが、それでも先生格の方はいる。陶芸の技量は、まだ私などにはわからないが、人格的にとても優れた方である。陶芸はわからないが、人格なら多少は私にもわかる。
 ある時点から、私は、この方は、陶芸に関しては独学なのではないかと感じた。私も、学校には人並みには行ったが、あらゆることは独学である。独学者には、「独学者の匂い」があり、それは独学者にはわかるのではないかと思う。
 それで、忘年会の席割が先生の近くだったのを幸い、聞いてみたわけである。はたして、そうであった。
 私は、独学者が好きである。有名どころを列挙すると、牧野富太郎、鳥居瀧蔵、三浦つとむなどの各氏である。この方々は、まったくの独学といって差し支えない。
 でも、落ち着いて考えれば、私が崇敬する吉本隆明さんだって、東京府立化学工業学校、米沢高等工業学校、そして東京工業大学卒という立派な学歴があるものの、文系は教養課程で学んだ程度(たぶん)で、独学と言えないこともない。確かに、専攻の電気化学で培ったものは、論理的にものごとをつき詰める役には立っているかもしれないけれども。
 だから、吉本さんにも、私は、「独学者の匂い」を感じるのである。
 同じ構造で、「母子家庭で育った人の匂い」というものもある。『ハーメルンの笛吹き男』(阿部謹也)のなかに、次の文章があった。

 身にはボロを纏い、同年配の女房などがそれぞれの亭主のことを自慢したり、こきおろしたりしている立ち話の横をうつむきながらも毅然としてすりぬけ、男たちの好色なまなざしにさらされながら、子供の成長だけに一生の期待をかけていた彼女たち、こうした女性たちは無限につづくように思われる、昼と夜の交代をどのような心境で受けとめていただろうか。

 これを読んで、私は、「あれ、この人、母子家庭で育ったのかな」と思ったのである。それが当たっていたことを、後年、私は知った。私は、母子家庭ではなかったが、ほぼそれに近い環境で育ったので、やはり「匂い」でわかったのだろうと思う。

【Live】チバユウスケさん1209

 ミッシェルガンエレファントのチバユウスケさんが亡くなった。55歳だった。若すぎるよなあ。12月6日の毎日新聞で知った。
 なんだか追悼してるみたいだけど、事実追悼ではあるんだけど、ミッシェルガンエレファントの曲は、私、一曲も知らない。でも、チバさんはよく知っている。
 よく出てくる「寛永」という焼酎バーのある道から一本西の通りに「ローライフ」という、これも焼酎バーではあるものの、同時にパンクロック・バーがあり、チバさんとは、そこで知りあった。
 このバーのマスターが、ロッカーではないがパンクではあり、そのパンクっぷりが気に入り、よく飲みに行ってたのである。そのころ住んでいたところから一番近いバーでもあった。
 マスターは、よく、捨ててあるギターを拾ってきた。それを修理するのは私の役目である。3、4本は直しただろうか。1週間とかかけて修理すると、当然、情が移る。だから、私は、「あれはおれのギターだ」と思っていた。
 ある日、そのバーに行ったら、若い衆が私のギターを弾いていた。正直なところ、「あまりうまくねえな」と思った。若い衆は、「弾きますか?」と言ってきた。「うん」と私は答え、受け取り、『東京の花売り娘』を演った。そのころ歌謡曲をジャズっぽく弾くことに凝っていたのである。
 彼は、「こんな人の前で、ギターを弾いたなんて、恥ずかしい」と言ってくれた。まあ、半分以上はお世辞だろうし、意外性に満ちていたことでも得をしたんだろうと思う。私は、ホームレス寸前みたいな爺さんだから、当然『影を慕いて』かなんか演ると思ったのだろうなあ。それか、田端義夫とか。その爺さんがなんだかジャズっぽいギターを弾いたので、それでビックリしたのだろうと思う。
 それ以降、彼は、本当に私の前ではギターを弾かなくなった。そのかわり、私とデュエットはよくした。どっかの馬の骨の爺さんとも、平気でセッションする人だったんだね。
 だいたいはオールド・ロックンロールだった。もちろん、他にお客がいないときだよ。そのへんの分別は、チバさんにも、私にだってある。さすがに、歌はうまい。あたりまえだけど。気持ちよくハモれた。そのなかでも、Don't let me downはよくおぼえている。
 私、この曲は、Don't let meでタメる癖がある。初めての相手なのに、うっかりそれをやってしまった。「イケね」と思ったが、きっちり合わせてくれ、downがぴたりと決まった。とても気持ちがよかった。
 彼は酒癖がよくないと評判だったが、少なくとも私の前ではそんな姿は一度として見せず、オールド・ロックンロールを演る以外はおとなしく、いつも静かに私と話し、静かに飲んでいた。私の印象では、とてもナイーブな好青年だったのである。
 そうか。アイツ死んじゃったのか。しかも、20歳も下だったんだな。
 新聞の訃報欄の死因は咽頭がんだった。咽頭がんは、手術で声帯をとられてしまうことがままある。それが嫌だったんだろうな。
 今晩は、youtubeで、ミッシェルガンエレファントを聴いてみようと思う。

【Live】文楽だって、なめてかかる1210

 金曜日は、マエダ(夫、妻)と文楽を見に行った。国立劇場が建て替えになるので、文楽は、しばらく仮小屋生活である。この日は北千住だった。おばさんは、体調がいまいちなので欠席。
 外題は『源平布引の滝』。見たのは、竹生島遊覧の段と九郎助住家の段である。この段だけだと、木曽義仲の生誕譚に近い。
『義経記』に出てくる木曽義仲はかっこよかった。そんなもの読んだのかとお思いかもしれないけれども、なーに、小学館から出ていた「少年少女世界名作全集」で読んだのである。60年前のことだ。義仲が都に攻め上ったのは、義経より早かったはずだ。だが、その後にはほとんど活躍をしていない。私が読んだものではそうだった。ちなみに、義仲クンは頼朝、義経の従兄弟である。
 義仲は、京都で相当エグイことをやったみたいだし、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。まあ、頼朝のほうがもっとエグかったんだな。
 今回見た段では生まれただけだから、まだ悪いこともなんにもできない。
 九郎助住家の段では、母・小まんの遺体を足蹴にした瀬尾十郎を小まんの子・太郎吉が刀で刺すところで、ちょっと涙が出た。私も、ヤキが回ったものだ。文楽で泣くなんてね。
 マエダ(夫、妻)は、文楽は今度で二度目である。初めて一緒に行ったときに、私は、「江戸時代の商家の小僧さんなんかも見ていたんだから、難しいものと思ったら負け」とアドバイスをした。今回は、「とてもよくわかった」と言っていた。アドバイスが効き始めたかな。
 北千住にはいい飲み屋が目白押しなのだが、神楽坂の宇和島料理の店へ行った。マエダ(夫)は、宇和島出身なのである。その店の話を聞き、おばさんが案内を切望したのだったが、前述のようにおばさんは全行程不参加。残念がることしきりである。
 東京ではなかなか食えないものがあった。例えば亀の手、あこや貝の貝柱など。
 前者は甲殻類だそうだが、まあ、巨大なフジツボみたいなものだ。自分では歩けない。巨大ったって、元がフジツボだからたかがしれている。後者は真珠養殖の副産物だろう。
 翌土曜日の『ブラタモリ』は宇和島に行くと、マエダ(夫)から通報があったので、見てみた。宇和島の話をよくご本人から聞いていたのだが、初めて、どこにあるかからはじまって、どういうところかがわかった。地形が伊勢志摩あたりに似ている。真珠の養殖をやりたくなるのも無理はない。
 じつは、いつもマエダ(夫)から宇和島のじゃこ天をいただいているのだが、そのお返しで、仙台の阿部かまぼこを数日前にさしあげた。いつもいただくじゃこ天は本当にうまいので、かまぼこなんか食うかなと思っていたのだが、なんと、仙台(伊達藩)から秀家(政宗の長子)が持って行ったかまぼこが、宇和島のじゃこ天の原点ということを『ブラタモリ』で言っていた。なるほど。マエダ(夫)は、「かまぼこ、うまかったので、酒を飲み過ぎた」と言っていたのだが、あながちお世辞でもなかったんだな。

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