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#9 鎌倉 知らない街を歩く【スナップ】

先日、撮影のために鎌倉に訪れました。その撮影の写真はコンテストに出すので、みんなにはまだお見せできないんですけども、とても素敵に撮れたと思うので楽しみにしていてください。

今日は鎌倉の街をのんびり歩いた時のスナップを出してみる。ここ最近の僕は、「行きたい街に行ってみようキャンペーン」を展開中で、鎌倉もその対象の一つだった。

ミーハー丸出しで恥ずかしいのだが、鎌倉に興味を持ったきっかけは、映画「海街ダイアリー」だ。ゆったりと進むストーリーに、寄り添うように佇むその風景たちがいやに旅情を誘った。

とはいえ、僕は聖地を巡ると言ったような野暮なことはしない。その街を自分で歩いて、自分で発見していく楽しみを味わいたい。

嘘です、色々検索してみたけど各地遠かったりして諦めただけです。

鎌倉は思っていたよりもずっと都会で大観光地だった。僕はおバカなので、鎌倉と湘南がお隣同士なことも知らず、鎌倉に抱いていたイメージが崩壊して軽くショックだった。鎌倉はレトロで大人な街の雰囲気を想像していて、湘南といえば僕の中では湘南純愛組(知ってる?)の街。まるで正反対のイメージを持っていたから、お隣同士なことにびっくりしたのだ。

鎌倉の海といえば由比ヶ浜。夏のピークを過ぎた時期といえ、まだまだ若者たちの活気が溢れる浜だ。そして、それはもう陽の気に満ち溢れていた。僕は基本的に陰を司るものなので、その輝かしい光のエネルギーに目をやられていた。夏の最盛期に来ていたら致命傷を受けていたことだろう。陽の気を直接見るのは危険なので、ファインダー越しにその世界を覗かせて頂きながらスナップを撮っていた。

海街ダイアリーの印象的なラストシーンはこの由比ヶ浜で撮ったらしい。なるほどね〜っと思いながら風景を眺めていたら、この街のもつ二面性みたいなものを感じ始めていた。

撮影したのは9月の初旬、海水浴シーズンが落ち着いて今は海の家なんかを解体している最中だった。そんな姿からでも、夏の時期がお祭り騒ぎみたいな空気だったことはなんとなく想像できる。

ふと気付いたのだが、海で過ごしているみんなが、どこか寂しげで儚い目を海に投げかけているような感じがした。終わっていく夏に想いを馳せているようで、少し寂しそうだったのだ。

一人ぼっちで散策している僕のような者から見たら、みんなやたらに輝かしく見えたのものだ。けれど、ほんのひと時を浜で過ごして、余所者の僕には推し量れない海への想いのようなものがあるように感じた。

海街ダイアリーのラストシーンは、そんな由比ヶ浜の「寂しさ」の側面を映し出していたように感じる。振り返ればただ純粋に愛おしいと感じていた時間が徐々に終わって、ちょっぴりの不安を抱えたまま次の時間が始まっていく、そういう心と時間の変遷のようなものを由比ヶ浜の景色に見た。

由比ヶ浜から鶴岡八幡宮に続く坂道周辺をレンタサイクルで走りながら、今度は市街地の方へ向かった。観光客で溢れる大通りを外れると、ゆったりとした日常の世界があった。

僕はこういうところを見るのが好きだ。観光地と、その周辺で日常的に生きる人たちとの境界線。想いの集積地であるはずなのに、その想いをある一定範囲で受け取らずに、気にも留めずただ過ごしているような感覚。

面白いなぁ。

ほんの数十メートル離れているだけで、人の雰囲気も街の様子もまるで違う。ある人にとっては一生の思い出になるような景色が、日常の風景として受け流されていく。そんな二面性を感じた。

僕が大好きなムーミンの1シーン。旅に憧れるムーミンが、スナフキンの旅に同行したがるという場面だ。スナフキンはムーミンに対して、自分は1人で旅に出ると言う。

僕は孤独になるために旅に出るんだ。
長い間の孤独な生活から、春、このムーミン谷に帰ってきた時の喜びは、何物にも代え難いものだよ。

楽しいムーミン一家 第21話「スナフキンの旅立ち」より

現実では、ムーミン谷とその他というような二極化された場面は少ない。どの街にも、旅と生活が混在している。旅に出た先にも、誰かの日常がある。その日常の中にも、ある夏の風景としての喧騒やお祭り騒ぎが内包されているのだ。その夏は誰かにとっては一生を変えるような思い出であり、手放すことが寂しいものだが、ある人にとっては毎年続くただの愛おしい日常の一部なのだ。

そんな中僕はというと、そんな素敵な風景たちをただ通過するだけの傍観者として見ている。僕自身は、心から土地を愛する訪問者でも、その土地に生きる人でもない。いずれの当事者にもなりきらない、気にも留められない葉っぱのような存在だった。心地よい疎外感を胸に、鎌倉での時間を過ごしたのだ。

こういうふうに透明になる時間が好きだ。誰にも気に留められず、風みたいにただ吹き流れるような自分でありたい。いちいち自分の名前を気にしなくていい、その時の気分でいい、明日には変わる行先でいいのだ。

想いを持った人たちは美しい。僕はその輝きを眺めて転がっていくものでありたい。出会った人たちにとって、なんでもない葉っぱとして認識されるくらいがちょうどいい。

そんなことを想いながら、わざわざフルサイズを持ち出してスナップなどと言って必死に歩いて写真を撮り、これもわざわざ仰々しくnoteなんかに書き残すのだ。矛盾だなぁ。先述の言葉通りなら、自分のメモ帳にでも書いておけばいいものを。

僕は、同じ葉っぱの吹き溜まりで、時々写真を見せ合って、うふふと笑うくらいの時間を愛しているらしい。そしてまた各々転がっていくのだ。

鎌倉からの帰り道、いなべの山が見えた時、少し当事者に戻ったような、そんな気がしたものでした。


三重県いなべ市で小さなデザイン事務所「スタジオビーモ」をやっています。今は写真撮影を中心にお仕事をいただきながら、コツコツデザインを作ってます。よかったらWEBサイトもご覧ください。





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