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Plaza de Mayoの記憶 その1:ペロニスト党誕生

五月広場は市民にとって、とても重要な場所です。
ある日、この広場を訪ねていたら、突然遠くから拡声器が鳴り響き、やがて何万人もの人々が広場に集まってくるといったことが起きても不思議ではありません。
人々は政府に対する反対または賛成を示したり、何かを要求するために、この場所に集まりデモ運動をするのです。
また、何か重大な出来事を記憶するためにも、ここに集まります。

通常、このようなデモ運動は事前に計画されており、警察によって通りが封鎖されたり、デモ参加者の空腹に付け込み数ペソを稼ごうとする「チョリ」や「パティ」などの屋台が現れますので、何かが起こることを予感できるそうです。

チョリ!  チョリ!
美味しそう! 

その場にいたら、きっと屋台の匂いに誘惑されると思いますが、衛生面で少し不安がありそうなので、気を付けた方がいいと思います。


この広場が誕生して450年、その間に起こった重要な出来事をすべて上げることは不可能であろう。。。

1945年10月17日、大規模なデモ運動がこの広場であったことをお話ししましょう。
アルゼンチン大統領に3回当選を果たしたファン・ペロンを支持する人々が起こしたデモ運動です。

当時、ファン・ペロンは労働者層に非常に人気が高かったため、軍事政権により拘束されていました。
この日は、ファン・ペロンを支持する人々が、彼の釈放を求め、広場に集まりました。首都ブエノスアイレス周辺地域に住む、これほど多くの貧しい人々や労働者階級の人々が、都市の中心部へ侵入してくる様子は、中流階級やエリート層の人たちに衝撃を与えるほどでした。

ファン・ペロンは、この群衆を鎮めるためカサ・ロサダのバルコニーから演説をすることになりました。そして、この事が「ペロ二スト党」の始まりとなりました。
その後、ペロンは釈放され、翌1946年、アルゼンチン大統領に初めて就任しました。

毎年10月17日は「忠誠の日」として、ペロニストたちは盛大に祝います。その忠誠心とは、政府高官時代に労働者層の生活環境を改善したリーダー・ファン・ペロンに対するものです。

1945年10月17日の最も有名な画像。 背景はカサ・ロサダ。 写真:国務省公文書館

また、アラン・パーカーのミュージカルを元にした 映画「エビータ」(1996年)はご存知の方もおられると思います。このエビータことエバ・ペロンは、大統領ファン・ペロンの2番目の妻です。エバ・ペロン役をマドンナが演じ、カサ・ロサダのこの同じバルコニーで「Don't cry for me Argentina….♫」と歌ったシーンはとても印象的でした。



それから10年後の1955年6月16日、五月広場で再び歴史的な出来事が起きました。政治的対立の結果、ペロン大統領の辞任を求め、軍部は一部の人々の支持を受けて、広場への空爆を行ったのです。

戦争でもない、平凡な一日、何の前触れもなく。。。

アルゼンチンの航空隊は、民間人に5時間にわたり14トンの爆弾を投下しました。ブエノスアイレスの歴史上、唯一の空襲であり、また軍隊が守るべきはずの国民を攻撃した世界で唯一(その時点では)のケースでした。
その結果、子供を含む300人以上の民間人が死亡し、800人以上が負傷しました。今でも経済産業省の壁には、榴散弾の跡が残っており、この出来事を忘れないように保存されています。
この人殺しの飛行士達は爆撃後、ウルグアイのモンテビデオに政治亡命し、その後、裁かれることはありませんでした。


この空爆事件から3ヵ月後の1955年9月、更なる軍事クーデターによりペロン大統領はついに倒され、17年間の国外追放に追い込まれした。ペロニスト党は一切の政治活動を禁止され、ペロンやエビータの名を口にしたり、ペロニスト行進曲(党歌)を歌ったりした者は獄中送り、もしくは殺害されたそうです。

現在のアルゼンチンは、ペロ二スト党が連立を組んで統治しており、良くも悪くも過去40年間の大統領選の大半を制してます。



Sr.Jokoのスペイン語・原版もお楽しみ下さいませ❣️



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