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Plaza de Mayoの記憶 その2:ディエゴ・マラドーナ

最近. この五月広場に多くの人が集まったのは、2020年11月26日、カサ・ロサダ(大統領府)で行われた元サッカー選手ディエゴ・アルマンド・マラドーナのお通夜です。

ディエゴ・アルマンド・マラドーナ とは。。

1986年 FIFAワールドカップ・メキシコ大会でアルゼンチン代表チームとともに世界チャンピオンになりました。
マラドーナは、サッカーが盛んな国では最も偉大なサッカーアイドルです。

だからこそ、大統領は、Covid -19のパンデミック(世界的大流行)の最中でも、通常は特別な機会にしか利用されないカサ・ロサダで、大規模な通夜を執り行うことを許可したのです。アイドルに最後のお別れをしようとする群衆に、メガホンで指示を出している大統領の姿を思い出すと、今でも信じられません。。

カサ・ロサダでのマラドーナの通夜では、参列者と警察との間で様々な事件が起きました。


サッカーの話に戻りましょう。。。
人によっては、リオネル・メッシが、マラドーナ「エル・ディエゴ」を上回ると考えているでしょう。
リオネル・メッシは、世界年間最優秀選手に贈られるパロンドールを7回受賞しています。

しかし、マラドーナが1986年にイングランド代表を相手に決めた2得点は、アルゼンチンの人々の記憶に強く残っています。
1982年にフォークランド諸島(マルビーナス)で起きた対英戦争の傷がまだ生々しい中での試合だったのです。

最初のゴールは手で決めたのかと質問された時、彼はそれを「神の手」だと定義しました。フォークランド諸島(マルビーナス)の敗北を前に、これが神の正義なのだと訴えたのです。

2点目は、イギリス選手を5人抜き去るという「世紀のゴール」で決めました。
2002年の日韓ワールドカップの際に行われたFIFAによる投票で、彼のこのゴールが「世紀のゴール」に選ばれました。

私はこの時、当時のスタジアムで行われていたのと同じように、小さくちぎった新聞紙を袋に詰めて空中に投げ、家族でお祝いしたことを今でも覚えています。
。。目の前で、イギリス国旗に火を放つ人たちを見ながら。。。

これらのゴールが評価され、マラドーナがこの時に着ていたユニフォームは、今年オークションで.....落札されました。
US$ 9.000.000.000!!!! …..90億円!!!!!

マラドーナのジャージがサザビーズのオークションに出品されるお知ら


マラドーナは、非常に特殊な話し方をする人でしたが、彼が使ったいくつかのフレーズは、アルゼンチン人に普通に使われるようになるという現象も起きました。
そしてまた、彼は多くのスキャンダルの主役にもなりました。違法薬物の摂取、子供の未就学、公言、他人への暴力行為などなど。。。
しかし、彼のスポーツの才能に異論を唱える者はおらず、彼を知る者はいつも、彼の寛容さを語るのです。


この広場でのマラドーナの記憶は、この通夜の日だけではありませんでした。
34年前にも、彼は官邸のバルコニーで世界チャンピョンになった事をを祝っていました。

そして、1990年、イタリアワールドカップで準優勝した時も、人々が認めてくれました。

そしてまた1979年、19歳の時、日本で開催されたU-20ワールドユース選手権で優勝した際にも、官邸を訪れています。

19歳の若き日のマラドーナ、U-20世界選手権日本大会(1979年)


マラドーナは、間違いなく、唯一無二の存在だったのです。
光の面でも…影の面でも…
極貧から這い上がり、成功し、常に注目を浴びながら生きました。そして健康を害し、60歳という若さで亡くなったのです。


    最も有名な「世紀のゴール」(ビクトル・ユゴー・モラレス 字幕付き)


 <日本語版>  日本とアルゼンチン、実況アナウンサーの違いが面白い!!!
 日本とアルゼンチンはすべての事が、この位 違うような気がします🙄




このように、五月広場は様々な歴史的出来事の舞台となっています。しかしその舞台の主人公は、いつも..絶対、人々なのです。記憶、感情、喜び、痛み、希望を持った人間なのです。


そしてそれは、ガイドとして、観光客と一緒にその場所を訪れる際に、常に心に留めておかなければならないことでもあるのです。


Sr.Jokoのスペイン語・原版もお楽しみ下さいませ❣️

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