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つぶやき|俳句修行日記

 俳句を教わり幾年月。その間、点印は勿論のこと、朱を入れられたことさえありゃしない。「こんなことで修業と言えるのでしょうか」と聞くと、「おまえは、かたちを整えることを俳句だと思っているのか?」と師匠。

 俳句とは、暮らしの中で自然に生じる『つぶやき』なのだという。それは、心情が表出して結晶となったもの。決して他者に口出しできるものではないのだと。
 ショックを受けて、「今までのボクは一体なにしてた…」とつぶやくと、「それこそが俳句よ」と、師匠がポンと背をたたく。

 俳句の歴史をたどると、ヤマトタケルが戦に疲れてつぶやいた「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる(にひばりつくはをすぎていくよかねつる)」に行きつく。御火焚の翁が、そこに「かがなべて夜には九夜日には十日を(かがなべてよにはここのよひにはとをかを)」と付けたことで、歌として認識されたとも言われる。
 師匠が考える俳句とは、自分の足元を照らし出す光。そこに、目を開かせるヒントを与えることはできるが、手を出したならば、求道の足をすくうこととなる…

「俳句を学ぶということは、自らの足下を見つめることじゃ。」
 仕事を押し付けながら語る師匠のそれが、ボクを上手く使うための口実のように思えてきて膨れっ面すると、「ワシの役割は、その生活態度を糾すことよ」とのたまう。つまり、師の役割とは、弟子に苦しみを導くことなのだと。技術論を取沙汰したり、思いを移植したりすることとは違うと。

 ボクが師匠に求めていたものが否定され、苦しみの大海に投げ出されたことに愕然とする。そして窓の外を遠く見つめて、「ボクたちは藻屑のようなものなのか…」とつぶやくと、師匠は何だか嬉しそう。
 かつてのボクは、不都合があるとすぐに他者を攻撃していた。いまここに、外界と内面とを一致させようとする心の働き。それは、ありのままを受け入れる心の準備が出来た証だという。
 師匠のたまう。「輝きは、苦しみの中からあふれ出てくるもの。おまえは、ここに喜びを発見することができるのじゃよ…」(修行はあと少しつづく)