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三段切れ|俳句修行日記

「切れを意識して詠め」という師匠の言葉に従っていると、「三段切れは駄目だよ」と友人が言う。その場は適当にあしらって師匠に尋ねると、『三段切れ』とは、複数の切れによって一句が三段構造を持ったものだという。現代俳句では忌避される傾向にあるという。

「しかしな、芭蕉にも『奈良七重 七堂伽藍 八重桜』という句がある。絶対にダメだというものではないが、三段切の句を作るからには、その効用を意識しておらにゃならん。」

 日本書紀の異伝に、妻を失った父神が、原因となった火の神を三段に斬りなしたという話が載る。「なぜ一太刀で済ませなかったのか?」と問う師匠に、「怒りが爆発したんでしょう」と答えてみる。すると師匠手を打って、「そのとおり!」と珍しい笑顔。

 自他の境界線を『切れ』の中に見つめる師匠にとって、三段切の意味付けは特別のものだという。先の神話で言えば、一の太刀で目的を果たしているのだから、二の太刀は不要のもの。それでも敢えて手を出したのは、自らの感情のやり場がなかったから。
 三段切は、とりつかれた妄想を打ち砕く。そこに言葉を揃えたならば、前へと進む勢いを生む。あの芭蕉さえ、ここに指折り数え、向こう側を目指しているのだ。

「出口を見失った時には、己の心を三段(みきだ)に斬りなせ」と師匠のたまう。その時、言葉は心を脱して動き出す…
 だが、安易に用いてはならないと。(修行はつづく)