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勉強の理由|俳句修行日記

 このところ師匠は、「勉強しろ!」とやかましい。「この本には何が書いてあったぞ?」と聞いてきた時には、「俳句が書いてありました」と答えるようにしているのだが、今日は機嫌が悪い。そこで、「俳句をつくるのに読書が必要すか」と聞くと、カミナリ落ちた。「勉強を怠ることは、人生を諦めるに似たり」と。
「勉強しなくても生きていけるじゃないですか」言うと、「おまえは、喜びのない人生を受け入れられるというのか?」と怖い顔。

 師匠が言うには、勉強とは自己に目を向けるために行うものなのだと。「食べていくためにするもんじゃないんすか」言うと、「そんな考えを持っとると首が回らんなるぞ」と。
 金は、虚像に万能を投影し、自他を騙しながら明日のために這いずり回ることを強いるものなのだと。

 勉強をするということは、『今』を生きることだという。知らないページに視線をおとし、そこに『何か』を発見する。これこそが真の『勉強』であり、この『存在の瞬間』を意味づけるものなのだ。
 ただし、日頃からの意識がなければ、その行為は苦痛に置き換わる。そして目的は、苦痛からの逃避にすり替えられてしまうのだ。その時、自らへ向けられるはずの視線は他者へ向き、嫉妬がために、汚れた言葉が溢れ出す…

「俳書の中には、先人たちの人生観が散りばめられておる。それを知識として表面的に吸収するだけなら面白くもなかろうが、琴線にふれる箇所を追求するなら、やがてそこに自分としての『喜び』が現れる…」
 師匠のたまう。「失望とともに人生を終えるか、勉強の中に今を生きるか、二者択一ぞ」と。(修行はつづく)