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掛詞から縁語へと|俳句修行日記

 師匠の俳句はダジャレばっかり。先日、ソレは俳句じゃないと言う人がいて、反論できずに困り果てた。現代俳句では、掛詞さえも避けるという。

「和歌が命脈を保ってきたのは、掛詞の恩恵によるところが大きい。それは、短詩の表現幅を広げるとともに、遊戯性をも付与してきたんじゃ。じゃから、俳句の前身とされる俳諧では、『賦物(ふしもの)』としての言葉遊びに用いられることもあった。」

「しかしな、遊戯性が高度化すると、一般人には理解しようのない芸事に成り果ててしまうもんよ。そんな中にやってきたんが『黒船』じゃった…」

「新しい文化との交流は、輪郭が不明瞭な詞の世界に疑問を抱かせた。子規はそれを月例の句合せの意で『月並み』と表現し、意味のない言葉遊びに過ぎんと喝破したんじゃ。そして、異文化の荒波から倭歌を守るために、西洋美術の発明とも言える『写生』を、古代からの音律に組み込んだ。」

「写生は、他者との掛け合いよりも自らの視点を重視する。そのため、虚飾は不要と見なされた。そんな中で、遊びの要素ととらえられた掛詞は、敬遠されることになったんじゃ。」

「じゃあ、師匠に習っているコレは『俳句』じゃないんすか?」
 ビックリして大声出すと、師匠、「そのとおり!」と高笑い。

 デスクにかたまって、何も言えなくなってしまったボクを見つめ、
「ダジャレに縛られるようならば、たしかに掛詞は排除すべきものかもしれん。また、変に掛詞を意識すると、表現に水を差すことにもなるじゃろう」と師匠。

「しかし詩の世界では、ひとつひとつの詞を『縁語』として意識するもんぞ。季語を切っ掛けとするなら、そこに絡みつく縁語のはたらきを見つけて、初めて世界の広がりを知るもんじゃからな。そうすることで、五七五には、短詩ゆえのシンプルな感動を得られるはずじゃ。」(つづく)